誕生月
ようやく朝晩が涼しいように思えてきた。
暑い暑い夏だって、やっぱり過ぎていくんだ。
目にははっきり見えないけれど、何かが少しずつ変わっていく。
何が変わっていくのかわからないけれど、ある日ふと気がつくんだなあ。
世界の全ては変わっていく。
変わらないのは神様だけ。
父と母が召されて3ヶ月が過ぎた。
4人の姉妹で両親の記念誌を作ろうと考え、原稿を集め、写真を揃えて形を整えている。家族や親しかった方々に、思い出を書いていただいた。それぞれが持っている写真から、文章に合わせ、また父と母の記念誌に良いと思われるものを選んだ。改めて、もう地上にはいない二人の人生を思わされた。
9月の中旬には出来上がるだろうと思う。
9月は母の誕生月で、生きておれば90歳を迎えるのだった。
いっちとみんみとたかも、9月が誕生日。
9月は喜びと感謝の月でありつつ、寂しさを覚える月になった。
植木と私
毎日暑い朝を迎える。
起きてまずするのは、ベランダの植木に水をやること。
亡くなった両親の育てていた鉢も、水やりのためにうちのベランダに移し持ってきた。
毎日毎朝水をやりながら、様々なことに思う時間がある。大したことを考えているわけではない。刹那的な思いが巡り巡って取り留めもない終着点もない結論も生産的な決心も、前に進む何かを生み出すこともない、泡のように浮かんで消える様々な思い。
それでいいと思っているけれど。
この夏の間に成長していく植木たちは、秋になりやがて冬を迎えて、花の季節を終えて葉を落として眠りに入るものもあるし、またその季節の中でも変わらず花を咲かせ続ける木も、さらに枝を伸ばして葉を茂らす木もあるだろう。小さなものも大きなものもそれぞれだ。みんな違う。
毎日毎朝水をやっていると、私がこれらを育てているんじゃなくて、私はこれらに仕えているのかなと思う時がある。疲れてしんどいときも、忙しく出かけなくてはならないときも、よろよろとホースを伸ばして水をやる。暑くなる前に、涼しい朝に水をやる。水をやらなくては枯れてしまうから。枯れて死んでしまうから。だからその恐怖に(笑)怯えながら私は水をやる。
あれ?おかしいな・・・と思う。
緑の葉を喜び、蕾を広げ花を咲かせることを喜び、葉が茂って広がっていくことを喜んでいるのに、同時に「仕えさせられている」感が拭えない。
小さな鉢の中に閉じ込められて、それ以上根を張ることもできないで、ひたすら与えられる水を求めて、それが無くなったら枯れるしかない限りある鉢植えやプランターの木や草に、なんだか息苦しさを感じるのだなあ。
育ててくださるのは神様。
たとえ小さな世界であっても、制限のある狭い世界であっても、いのちは神様のものだから、植えられたところで芽を出し花を咲かせ葉を茂らせる。生きる条件が整わなければ仕方がない。与えられた世界をそのまま受け止めるしかないのだ。
私たちに被造物全てを管理・支配するようにと神様は言われた。
その時人にとっては、きっとそれは喜びだったに違いない。
でもそれは損なわれた。
同じように、私の中にある罪は、それを喜ぶことができないし、従うことに困難を感じるし、全てをあるがままに受け入れることも委ねることもできないのだなあ。
「こうあるべき」「こうしなければならない」
神様のルールではない私のルールが、私の世界を縛っている。
硬く縛っているものを緩めていきたい。
もっと自由に、神様の恵みの中を歩みたい。
そんなことを思いながら水を撒いた朝だった。
自分のこと [その他いろいろ]
梅雨も明けるのか明けないのか、今日も暑い朝だった。
会議があるとかでみんみは今日もお弁当を持って出勤。
会議に出るためではなく、その間の受付をするために(笑)
仕事があり、それができるという事は本当に感謝な事です。
私は、年子の三人姉妹の長女。年子だから姉妹の中では長女という意識はなかったように思う。でも、両親からはお姉ちゃんである事、長女である事にまつわるしつけ?は、後で母がかわいそうな事をしたと行って泣かれるほどあったのだろう。
長女あるあるで、年子であろうとなかろうと、やはし長女気質は共通なのだ。
一歳の誕生日の二日後に妹が生まれた。
だから現在長女歴61年(笑笑)
これをなかったことにするのは不可能なのだ。もう61年染み付いた長女癖は、簡単になかったことにも忘れることもできないのだ(開き直り?いやいや深く自覚するということ)
もちろん、それを理解して抑える事はできる。でも、意識して抑えると逆に強く反応が出てしまう事だってあるんだなあ。
幼い時、お客様が来られるとご挨拶をするのは私。
お土産をいただいた時、お礼をいうのも私。
好きなものを取って良いんだよ、と言われた時、一番最後に取るのは私。
剥かれたリンゴの一番小さいのは私。
可愛い色のオモチャやものは、私のものではない。
私の色は青。
三人でいたずらして怒られるのは私。
これは、当たり前のことと思っていたので、特に長女は嫌だとか損だと思ったことがなかった。多分妹たちもそんなこと考えた事はないだろう。
嫌だったら嫌だと言えば良いのだ。好きものは好きだという理由でもらえば良いのだし、大きなリンゴを取っても良いのだ。長女だって赤やピンクの可愛いものを好きだって良いのだ。大学だって、働きながらでも行ったらよかったのだ。好きな事をしても自分で責任をとってしたらよかったのだ。
なんて、今なら考えられるけど、1歳からの様々な教訓と経験はしっかり染み付いて私という人間を作り上げてしまったのだな。でも、私は被害者ではない。何かを待ったり、我慢したり、諦めたり、遠慮したりする事は難しいことではなかったから。誰でもみんな、そういう成長の中での影響を受けずに大人になる人はいないのだから。
そうして大人になる過程の中で、さらにいろんな影響を受けて、作り上げて、練られて、学んで今の私があるのだから。それで良いのだ。
と、少し体にも心にも、頭にも疲れを覚える62歳は思うのだった。
幼い日のこと(3) [想い出いろいろ]
子どもの頃は、なんでも遊びにつながるのだった。
外にあるものは全て遊びのためのものだった。もちろん、おままごともした。オオバコや赤まんま、どんな葉も花もおままごとのご飯になった。でも、女の子しかいないので、お父さんのいないお母さんばかりのおままごとだった。
多分一番遊んだのは手を繋いで遊ぶ遊び。
「かごめかごめ」「今年の牡丹は」「とおりゃんせ」「はないちもんめ」などなど。お友達みんながお母さんたちから次々と昔の遊びを教えてもらって、みんなで遊んだ。みんなで輪になって踊るのが本当に面白かった。
少し学年が上がると、石蹴り。
毎日道を歩く時には下を向いて、石蹴りにちょうど良い石を探しながら歩いた。良い石はもちろん家に持ち帰って大事にしまっておく。お友達が良い石を持っていると本当に羨ましかった。石蹴りもいろんな形があって、オーソドックスな丸を繋げる「けんぱ」も結構遊んだけれど、そのうちレベルが高くなって言って、自分の陣地を作っていく大きな石蹴り用の四角い図面を土に書いて遊ぶようになった。
そう!大きな通りも、家の周りもどこもかしこもコンクリートもアスファルトも引いていない土むき出しの道だった。雨が降るとへこんだところに水たまりができる土の道だ。歩いているとあちこちに石蹴り用の四角や丸が書いてあるのだった。
ゴム跳びもよくやったなあ。飛び方にいろんな名前があって、難しい飛び方をする子はみんなの憧れだった。私はただでも運動ができなくて、走るのもなんでも遅かったから、ゴム跳びなんて言ったって、すぐに引っかかってしまう。上手に飛べる子が羨ましくも憧れたものだ。
虫取りもよくした。網なんてないので棒の先に針金を丸くして付けて、軒下の蜘蛛の巣を引っ掛けて虫をとる。一回使うともう使えない。あるときにトンボを捕まえたら、一緒にいてくれたおじちゃんが「お母さんトンボが探しているよ。放してあげよう。」と言った。みんな「そうだよ、かわいそうだから放してあげよう。」と言ったけれど、小さい妹が「お母さんトンボもちゅかまえればいいよ。」と言い放った笑
私はどちらかというと外遊びよりも本を読んだりするのが好きで、家にある本はみんな何度も何度も読んだものばかりだったので、お友達の家の本を読むのが楽しみだった。ある時お友達の家で本に夢中になっていて、みんなは私を置いて外に遊びに行ってしまったことがあった。ふと気がつくと家の中には誰もいないのだった。その後どうしたかは覚えていない。私のことだからそのまま本を読み続けたかもしれないな。
冬の遊びは特別。なので「続く」なのだ。
幼い日のこと(2)食べ物
夏から秋。
私たちは道の側に生える大きな大きな、大きな蕗を折って持ち帰り、夕食に煮てもらって食べた。蕗は本当によく食べた。私は母が煮たちょっと甘じょっぱい蕗が大好きで、それさえあれば他に何も無くてもよかった。北海道の蕗は子どもの手首くらいの太さがあって、食べ応えもあるし、独特の香りが食欲を増してくれた。柔らかく煮た蕗のすじと皮を剥くと爪と指が灰汁で真っ黒に染まって嫌だったけれど、それでも母がそれを煮てくれると美味しい蕗の煮物ができるのだ。嫌だなんて言ってられない。たらいの水に浸かった蕗を、両手で持ってすじと皮を取る。小さな声で「おいしくな〜れ」と言いながら。
冬が近づくと、両親はとても大きなポリバケツを二つ三つ用意する。そして、飯寿司を作るのだ。大根、人参をひたすら刻む。そして、ホッケやハタハタを切って何度も何度も冷たい水で洗う。細かい行程は知らないけれども、そうして出来上がる頃には雪虫が飛んで空気はますますキンと冷えてくる。大きな青いポリバケツは寒い冷たい糠小屋に置かれて漬かるのを待つのだ。本当に美味しかった。ちょっとお醤油を垂らして食べる。口の中に冷たさと程良い酸っぱさと、魚のいい香りが広がって、野菜のシャキシャキした歯ざわりと、魚の締まった肉が口の中で、噛めば噛むほど旨味が広がって行く。少しずつしか食べられなかったけれど、大好きだった。
魚はホッケ。
茶の間の真ん中の、ひょうたん型の薪ストーブの上は、大きなところも小さなところも蓋が何重にもなっていて、かける鍋の大きさによって蓋を取る。お味噌汁や煮物のお鍋をかけながら、空いた方に網を置き、大きな大きなホッケを焼く。それは父の仕事だった。火加減を見て、父は端に寄せたりしながらなんとも上手にホッケを焼いた。上手なのは焼くだけではない。父は魚の食べ方も最高に上手だった。焼きあがると父は、私たち子どもに、骨のある側の骨をうまく剥がしてその下の柔らかい身を取ってくれて私たちのご飯の上に乗せてくれる。湯気が上がってホッケの油がたっぷりの肉をご飯と一緒に頬張る。骨のない側は、身が焼けて少し表面が硬くなっている。そこは母にあげる。そうして父は、両側のエンガワの下の脂ののったことろ、ホッケの顔のよく動いた顎や頬の味の濃いところ、身を取った後の皮に残る茶色の身、最高に美味しいところを、うまく掻き出して食べるのだ。小さな子どもの頃は「お父ちゃんがかわいそう」と思ったけれど、いまはわかる。そこは実は最高に美味しいところなのだ(笑)そうして、家族が食べ終わる頃、父は大きなホッケの骨を網に乗せて焼く。パチパチ油がはねていい香りがしてくると、サクサクに焼けたその骨を、私たちに食べさせてくれるのだ。
夏のとうきびも忘れてはならない。もぎたてをすぐに茹でて、熱々をほうばる。こういう時に性格が出るのか。粒なんか気にせずにガブガブ噛んで食べる子。手で実をほぐして口に入れる子。三人三様の食べ方をする。ちなみに私は今でもやっぱり、ほぐして一列ずつ手にとって食べる派だ。とうきびが実る頃は、それが夕食だった。
秋が来てジャガイモが出来ると、茹でた熱々のジャガイモにバターを乗せて、これも夕食によく食べた。ただそれだけの夕食だったけれど、家族で窓の外に広がる空を見て夕風に吹かれながら、田んぼで激しく啼くカエルの声を聴きながら食べるそれは、最高のご馳走だった。
夕方ラッパを吹きながらお豆腐屋さんが自転車にお豆腐やおあげや納豆を積んでやって来る。たまにお鍋を持って買いに行き、大きなお豆腐や納豆を買って帰る。私たちは三人年子であったので、本当に小さい時は、父や母は大きな丼にご飯を入れて、そこに納豆を入れたり、あるときはお豆腐を砕いて入れて味をつけ、大きなスプーンでひと匙ずつ私たちに食べさせてくれた。よくそんな夕食を食べた。食べるのが遅い次女は、口に入れてもらうと耳たぶをこねながらゆっくりゆっくりいつまでも口の中で噛み続ける。三女はとにかく早いので、口にスプーンが入る回数も多くなる。そのせいか、子どもの頃の次女はいつもほっそりしていて、三女は顔もお腹もぷっくりしていた。三人を並べてご飯を食べさせながら、若い両親は何を考えていたんだろう。流れて行く日々の出来事の中で、将来をどんなふうに夢見ていたのだろう。目の前に口を開けて並ぶ三人の娘を見ながら、どんな期待を持っていたんだろう。私は、そんなことを思いながらニヤニヤしながらも涙が溢れて来る。
父と母が、春にある教団の総会に出かけて、小学生だった私たちが留守番をしたことがよくあった。母方の祖母が来てくれていた。でも、学校から帰ってくる頃は、祖母も忙しくいないことが多い。それで、子どもたちだけでその頃出たてのインスタントラーメンを作ったことがあった。子どものする事だから、半分遊びである。麺とスープを分けて見たり、麺に違う味をつけて見たりごっこ遊びをしながら食べたラーメンの美味しかったこと。
祖母は寝る時によくおとぎ話をしてくれた。三人が揃って寝ているところに、祖母も横になりながら話してくれるのだが、眠くなってくるのだろう。私たちの目は冴えて来るのに、祖母の話はシンデレラが毒入りのリンゴを食べたり、サルカニ合戦に泥の船が出てきたりとごちゃごちゃになるのだ。私たちは、やがて祖母の頭が揺れ始めて、お話も途切れてしまうのをなんとも言えずくすくす笑いながら見ていた。
小学校のすぐ横にあった祖父母の家までは、子どもでも歩いて5、6分と近かった。祖母は、私たちが寝るのを待って家に帰って行く。祖父母が住んでいるのに、私たちはいつもその家を「おばあちゃんのうち」と呼んでいた。今考えると全く祖父には色々申し訳ないことだった(笑)
子どもの頃、よくうちに大きな荷物を担いだ行商のおばちゃんたちが寄って行った。薬やお菓子などを持ってやって来る。秋田団体につながる山を越えてやって来るのだ。母は、お茶を出して世間話をする。ある時頂き物のとっときのカステラをお出しした。すると、おばちゃんはカステラの下の紙まで食べてしまって、母は申し訳なさと可笑しさで困ったと言っていた。ちゃんと剥がしてからお出しすればよかったのにね。そのおばちゃんの売り物のお菓子は、不思議な懐かしい昔ながらのほぼ全てが茶色いお菓子だった。母は、教会の集まりのために、たまに買っていたのだろう。時折私たちの口にも入ることがあった。私は、綺麗なオレンジ色のガムやチョコレートの方がいいなと思っていて、おばちゃんの売っているお菓子はどれも美味しいとは思わなかったが、いまでは本当に懐かしい。
綺麗なオレンジ色のガムは、くじ屋さんに売っていた。たまにいただくお小遣いの5円玉を握りしめて勇んで出かけて行く。おばちゃんに5円玉を渡してくじの糸を引く。ある時大きなオレンジ色のガム玉が当たって、大喜びで家に帰ると、父はそれを取り上げて水を入れたコップの中に入れた。そして、綺麗なオレンジ色がくすんだ黄土色になるまでつけておいてから、食べても良いと渡してくれた。それはほんのり甘いだけで、もはやなんの香りも味もしなかった。着色料や添加物が好き放題に使われていた頃の話だ。父に抗議はしなかったように覚えている。ちゃんと説明してくれたから。とても体に悪いものだということもわかった。でもそれよりも、ただただ悲しかったことを覚えている。
幼い頃の食べ物は、いつも家族の思い出と繋がっている。若かった父や母。多分いまの私と同じ年頃であっただろう祖父母。眠い目をこすりこすり、朝日が差す茶の間でラジオのニュースを聞きつつ急かされながら食べた朝ごはん。オレンジ色の電気の下で、毎日毎日ちゃぶ台を囲んでいただく夕食。まだテレビもない頃の当たり前のどこにでもある家族の風景と、父や母が作るその頃の北海道の普通の食べ物がいまの私を育ててきてくれた。遠い遠い遥かに昔の毎日であり、遠い遠い遥かに古い食卓だ。
それなのに、何故か今よりも豊かで幸いな食事だったと思い返すのだ。
幼い日のこと(1) [想い出いろいろ]
両親は、留辺蘂の小さな教会の前に小さな畑を作った。
玄関から出て右側に父が作った小さな砂場があったが、その向こうに作られた畑では、ネギやナスやとうきびやエンドウ豆が収穫の季節になると次々に出来て、小さな私たち姉妹は、笊を持って小さな手で収穫の手伝いをした。
玄関から表の細い道まで、砂利を引いた短い私道があって、右にはマーガレットの株が連なって植わっていた。季節になるとたくさんの白い花が咲いた。私たちは容赦無く花を手折って遊んだものだ。左にはクコの株が植わっていて、父はその葉を摘んで干してクコ茶を作って飲んでいた。私たち姉妹も飲まされたが、私はそのへんに甘くて臭いお茶が苦手であった。
そして、その横に父はささやかな花畑を作った。入り口に大手毬の木が植わっていて、季節が来るとクリームがかった大きな花房をつけた。その花が大好きだった。母は、時々ひと枝手折って学校に持って行かせてくれた。教室の先生の机に、その花を飾る時に、なんとも言えない誇らしい思いがしたことを覚えている。
その花畑に他にどんな花が植わっていたのか、はっきりと覚えていないが、ある時教会を訪ねてこられた偉い先生に、父はその花畑を案内していたのだから、多分案内するに足る花々が植わっていたのだろう。春だった。私たち姉妹は、お客様を喜ばせようと、北海道の大きなタンポポの花を編んで、花畑の中にあったアーチの門に飾った。ところが、花粉症だった母は、そのタンポポのせいでひどいアレルギーの症状を起こしたのだった。良かれと思った事が悲しい結末になった。
母方の祖父母の家の奥に、線路まである広い畑があった。時折蒸気機関車が大きな汽笛を鳴らして走っていく。いろんな花や野菜が植わっていて、祖父は楽しそうに手入れをしていた。小さな作業小屋には金眼銀目の白猫が住んでいた。
教会の前の細い道の向こうは、広い広い田んぼであった。あぜ道に咲くタンポポ、ミゾソバ、勿忘草、ぺんぺん草、オオバコなどの小さい花が大好きであった。
学校から帰ってくると、春も夏も秋も田んぼで遊んだものだ。途中に流れている小さな川や、田んぼの中の生き物たち。
春に、思いがけないところから芽を出し花を咲かせる福寿草。
夏になるとぐんぐん伸びていく稲の葉と夜の蛙の大合唱。
秋には、刈り取った稲の株の間を行進する子どもたち。
そして、冬はただひたすら広い雪野原になる田んぼで、何日もかけて作った雪の陣地での雪合戦。
思い出したらきりがない。
ゆっくり書いておこうと思った。
紅葉山・・・。
父と母のこと [家族の事]
父が危篤との知らせを受けたのは、5月の12日の早朝だった。
朝の2号線は渋滞していて、隣町の病院に着くまでの時間がもどかしく苦しかった。
延命治療を断っていたので、個室に移されて酸素マスクをつけた父の体には、血中酸素を測る機械と血圧を測る線と心拍数をはかる線が繋がっている先に、それらを示す機械が動いていた。
2月から2ヶ月半の間、コロナウイルスの感染防止のために面会もお見舞いもできずにいて久しぶりに顔を見た父は、とてもとても痩せていた。苦しい息をしながら時折目を開けていたが、その目には何も写っていないかのようであった。
少しずつ少しずつ血圧が落ち、心拍数が落ちていたが、それでも四日間父は頑張った。四姉妹が周りを囲んで賛美をし、祈り、介護した。いっときも離れずそれぞれがそのそばに付き添って、四人が一回りした5月15日、危篤と言われて四日目の夜に父は息を引き取った。静かな死であった。
同じ病院に入院していた母も、毎日車椅子で看護師に付き添われて父に会いに来ることが出来たことは本当に奇跡のようなことだった。母は、骨髄異形成症候群のために、様々な悪い症状が起きており、痛みと高熱と息苦しさで5月のはじめに緊急入院していたのだ。担当医は、母の方が父より先に逝くのではないかと言っていたのだが、結婚してから60年以上、体の弱かった父の介護をして過ごしていた母が、父の最期を看取ることが出来たのは、本当に神様の憐れみであった。
おそらくホッとしただろう。
母は、その病いのせいで胸の上部にできた悪性の腫瘤から流れ出る水が心臓と肺に溜まっていた。これから訪れるであろう溺れるような苦しさと心臓の圧迫を予想していた医師は、自分だったら麻酔や睡眠薬を使ってその苦しさから逃れたいと言った。
母は、その苦しさから逃れるために薬を使うことは、神様が与えられるものから逃れることになってしまわないのか、神様に申し訳ないことにはならないのかと心配した。
信じている神様から受けるものすべてを、たとえそれが苦しみや悲しみや、喪失や痛みであっても感謝して喜んで受け取りながら生涯を歩んできた母らしい言葉であった。
しかし、そんな話をしていた母は、その薬を使うことなく一瞬のうちに、本当にあっという間に苦しむ事もなく天に帰っていった。病室に尋ねてきた主治医の目の前の出来事であった。恐らく急激に大きくなっていた腫瘤に圧迫されていた大動脈が破裂したのではないかという医師の見立てであった。
父が天に帰ってわずか6日後のことであった。
一週間のうちで月曜と土曜日に続けて葬儀を持つことになった私たち姉妹は、その出来事の全てを追われるように経験して今に至っている。
父享年87歳 5月15日 召天
母享年89歳 5月21日 召天
亡くなる前に母は話してくれた。
「死ぬことはちっとも怖くないの。
だってね。愛する愛するイエス様の元に行くのだから。
生涯かけて愛したイエス様に会えるのだから。
いのちをかけて私を愛してくださったイエス様に会えるのだから。」
父のこと [家族の事]
昨年11月に父は、誤嚥性肺炎で緊急入院した。
元から50歳代に発症した喘息を患っていたので、レントゲンを見た医師は、両方の肺の下部分が喘息のため白く写っていて、この肺炎のせいかと思い、とても驚いたようだった。
そんな状態でほぼ半月を入院して過ごしたが、無事に退院ができた。
入院中は、身体のリハビリをしてくださったり、経口食のリハビリをそれはそれは優しく丁寧にしてくださって、私は行く度に「昨日はこれくらい、今日はこれくらい口にすることが出来た。これからの計画は…。次の段階は…。」と報告して下さる担当医師と看護師さんに本当に感謝した。
心筋梗塞や様々な既往症があった父は、毎食後多くの薬を飲んでいたが、入院中の最初の一週間ほどは、何も口にすることが出来なかったため、30年近く薬を飲まない日はなかっただろうに、おそらく初めて一切薬なしの日々を過ごした。
それでも、少しずつ経口食を始めて、十日ほどで病院の食事を工夫して食べられるようになり、薬も飲めるようになって行った。
退院してきたときの父は、驚くほど認知症の症状が薄らぎ、目を開けていることが多くなり、反応もはっきりしていて、声を出すことも多かった。あいにく母が、骨髄異型性症候群の症状が悪化し、白血病に近い症状や膀胱に癌の疑いが出てきたために強い薬を使い、その副作用がとても悪くて入院していたときであった。
退院した父の家に私が泊り込み、デイサービスやショートステイの利用も始まったのだった。
その頃のことをブログにも書いたが、レビー小体型認知症がひどくなってから始めて私の名前を呼んで確認したり、腕を広げて私を抱きしめたり、両手を握って何度も何度も力強く振ったり、それまでなかったことをしてくれた。
そのことが、私にはとても不安で、かえって「なぜだろう」と思わされたのだった。
そして、12月に入りショートステイ先で高熱を出した父は、わずか一ヶ月の間に二度目の誤嚥性肺炎を起こしたのだった。救急車で先に入院したところとは違う病院に運ばれて、母がお世話になっている病院と同じところに入院した。そのことは本当に良かったと思っている。
しかし、父は再び経口でものを飲み込むことが出来なくなった。今までも飲むのを本当に苦労していたので、初めの入院後に粉末に代えてもらった多くの既往症の薬も、一切飲めなくなった。先の入院の時は、若い女医さんから詳しく丁寧に説明していただき、そのような状態になっても、回復して行ったら大丈夫ですと言っていただいていたが、この時の入院では、父はそのまま療養型病棟に移ることになった。積極的治療はできないということだ。
仕方がない、リスクは高くなっているのだから。
薬を飲むことで起こる肺炎のリスクと既往症の薬を飲まないリスクはほぼ同じ。
そんな説明を受けた。
そんなことはわかっている。
ただ、これで父はもう回復して行くことはないのだ、もう家に帰ることはほぼ出来ないのだ、あの日々はもう帰らないのだ、恐れていた次の段階に移って行くのだ…心に渦巻いていたあの不安や恐れが私を打ちのめした。
わかっていることでしょう、信じているの?、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう、医師や病院を困らせてはいけないでしょう、悪い印象を与えてはいけないでしょう。
今まで、どれほど私が口にしてきたことだろう。
そのような恐れや不安を心に覚えている人に向かって。
そのような言葉が、果たして不安や恐れを癒すことができるだろうか。
決して出来ない。
むしろ、その言葉は不安や恐れを持つ心を裁き苦しめ痛める。
私は今まで本当に、そのような痛みや苦しみや弱さを覚えている人の心をわかっていなかったのだと、自分がその立場にたって初めて分かったのだった。
私は打ちひしがれてしまい、それからしばらく鬱のような状態になり(その時はわからなかったが、後で考えるとそうだったのだと思える)父に会いに行くことも父のことを考える事も苦しくなり、前向きに何かを考えることも、しなくてはならないことをする事も出来なくなり、教会の一番忙しいクリスマス時期にただただ虚ろに過ごしてしまった。20年以上続いて描いていたみことばのしおりも、絵を描くことが出来ずにコピーしてシールですませた。
父たちの家を管理しなくてはならず、ベランダの鉢に水をやりに家に行くのだが、父の介護用のベッドを引き取ってもらったり、お世話になっていたデイサービスやショートステイ先に行き挨拶をしたり、残っていた薬や介護食などを処分したり、淡々とできることをしながらも、不意に胸が苦しくなって涙が溢れることが度々あった。
今でも、その頃のことを思い返しては胸の痛みを感じる。
新年を迎えて、家族で話す時があり、私はようやく父の見舞いに行く決心をし、それからコロナのせいで面会ができなくなるまで約一ヶ月半ほど週五日父のところに通った。
かつてのように、父の世話をし、その側で時間を過ごしながらも、何か心に一つの区切りのようなものが出来たことを、出来てしまったことを感じていた。
人の心は本当に面倒で複雑でわかりにくくて、自分の心でさえ自分ではどうする事もできない。私のように自分のことを素直にありのままに話すことにストッパーがかかって育った人間が、心の中で思い巡らすことは複雑すぎて自分でも理解できない。
だから、時々このようなブログを書くことさえも、意味なく思え、また書き表すことに抵抗を感じて書き続けることが難しい。
そんなことってあります?
単純に考えられたらいいなと思う。
二律背反の考えの両方が両立するはずがない、それが両立してしまうのが人間の心の複雑さなのかもしれない。頭で考えることと心で思うことは一つではないのだ。
お父さん、会えなくなって長い時間が過ぎました。
お父さんたちが、長く暮らした町を離れてこの街に越してきて13年が過ぎて行きますね。
一緒にたくさん長い散歩をしましたね。
歩いて、そして車椅子になってからも毎日のように散歩しましたね。
小さな花を見て喜びましたね。母のために花を持ち帰った事もあります。
昔の話をいっぱいしましたね。随分自分の思いや考えたことを話してくれましたね。
認知症がはっきり分かってから、どうしても文章が書けなくなるまで交換ノートもしましたね。多分、おかしな字を書いてしまうことや、文章がまとまらないことがあって、それで書くことをやめてしまったのでしょうか。
今日もお父さんの病室に、明るい春の陽が差し込んでいるでしょうか。
きっと目をつぶったままでも、その光がわかるでしょうね。
私は、きっと今日も目を瞑り静かに横になっているであろうお父さんのことを考えています。
いつ会えるのかわかりません。
でも多分いいのです。
会えることが良いのではなく、今、目の当たりにお父さんを見、会うことが出来なくても、お父さんの思いと存在のすべては心の中に濃厚にあるのだから。
今日もお父さんの一息一息を神様が守ってくださいますように。
頭の中に浮かぶすべてのものが、良きものでありますように。
そばにいて介護してくださるすべての人々が、守られてやさしい気持ちで接してくれますように。
四月の終わり [今日の事]
今日で四月も終わる。
このような春は初めてだけれど、町の街路樹はハナミズキの花を咲かせ、あちこちに春の花が咲いている。もうはやツバメがきているとの知らせも耳に入る。
娘たちは仕事が休みになり、先の見えないことに不安を覚えながらも毎日を家の中で過ごしている。
息子は一人東京で、やはり仕事が休みになり、家賃の支払いの心配をしながらも、家には帰らず東京にとどまることを選んで過ごしている。どうしているのだろう。
淡々と為すべきことをしながら日々を過ごしているが、心の中には焦りや不安がないと言えば嘘になる。それでも…それでも、この日も神様が生きておられることと、良きことをなして下さると信じて、物事の良い面を見ようと心に決めている。
「いつもほがらかに すこやかに過ごせるように。
最悪の時にも感謝すべきものがあることを悟ることが出来るように。
心を尽くし思いを尽くし力を尽くして主を愛することと
自分と同じように隣人を愛する日々を送ることが出来るように。」
朝ごとに祈りながら、この時を大切にし、すべてのことには神様が与えてくださっている意味があることを知っているのだから、失望しないで期待を持って歩めるように祈ろう。
当たり前だと思っていたことが当たり前ではないこと
昨日のように今日があり、そして明日があるとは限らないこと
1日に終わりがあるように、私の人生にも終わりの時があり、いのちも時もすべては憐れみ深い神様の御手の中にあるということ
主にあってはすべてが最善であるという真実を、味わいながらこの時を過ごそう。
門はいつも開かれているのだから。
夫の誕生日 [家族の事]
今日は夫の誕生日である。
このような状況の中なので、いつもとは違う誕生日になるだろう。
それでも、朝一番にお祝いを言って、お互いに感謝の言葉を伝えて……そして、後はいつもの日常。
そうそう、LINEで東京のたかからお祝いの言葉があった。よく覚えてたね。
初老と言われる年齢になって、それにふさわしくあちこちにヒビが入り(笑)不具合が生じ、思うように動かない体に不自由を感じることもあるだろうけれど、心と思いは年ごとに成熟し充実しているようだ。
秘密のノートに(なんだそりゃと思われると思いますが、みんな持ってない?日記ではないんだけど、私は、様々思い巡らしていることや思い出や、好きな言葉、昔の人たちのこと、家族のことを書き込んでいるノートがあるんじゃよ恥)夫の好きなところ、賞賛されるべきところを書き込んでいるが、もうページいっぱいになってしまったよ。
そうしていると、小さなすれ違いや誤解や、傷つくことも拭われる。自分の中でそれらのマイナスの事ごとが解消されて解決する。
結婚式の時に司式の先生がおっしゃった「すべての歴史中から、すべての世界の中から、あなたのためにこの人を選び、この人のためにあなたを選ばれたのは神様です。」という言葉を思いながら33年。
今朝も、二人でその年月を感謝した。
みんみのこと [家族の事]
みんみが結婚する。
一昨年の11月に友人の紹介で出会い、去年の3月に「結婚を前提にお付き合いしてください。」との申込みをいただき、二人は1年の間、静かに、穏やかに、大切に、お付き合いを続けてきた。
今年の2月、正式にプロポーズされて、みんみは「はい」と言ったそうだ。
後で夫が「なぜそんなにすぐに返事したんだ。祈って考えますとか父に聞きますとか言えばよかったのに。」(笑笑)などとぼやいて?いたが、素直でまっすぐな二人のことだから、損得勘定なし計算なしで進んだことなのだろう。
4月にお相手がご挨拶に来られ、みんみもお相手の行っている教会と牧師先生方とご両親にご挨拶に行った。
実は様々な難しい問題はあるのだが、神様はきっと今までそうであったように、これからもみんみを守って支えて導いてくださると信じている。
三人の子どもたちの中で、最も主張が弱く(かと言って自分の考えがないわけではなく、ひょっとしたら三人の中で一番強いかもしれない)大人しく(小学校中学校と、人前で話すことが苦手で貝のように口を閉じて過ごすことが多かった…でも高校で豹変した。女子校に行きアーチェリーを始め、美術を専攻してから明るくおしゃべりで楽しく毎日を過ごすようになった!男子がいなくなったからだと本人は言う。)色が白くて細いから病弱のように見えて(実際長い間アレルギーに苦しんだ。なんとか今は回復して薬もなくても過ごせるようになった)控えめで(毎日食事の支度や家事を手伝ってくれるが、自分の事は後回しにしても人のために都合よく動く…どうして人の考えていることや願っていることがすぐにわかるの?って思うこともあるくらい。それが嫌ではなく喜んでできるところに、真の強さがあるんだろうな。)
いっちにあれこれ指図されても、すぐに椅子から立ち上がってお湯を沸かしてあげたり、何かをとって渡してあげたりすることが、なんの抵抗もなくできる。自分なりの考え方はしっかりあるので、時々意に沿わないことだってあるのだろうが、そこから早く回復することが出来る様になった。
そして、いっちとみんみは本当に仲がいい。
コロナで仕事が休みになり、自宅にこもっている毎日だけど、夕食後に二人でふざけあっている姿を見ると、感謝だなあと思う。
コロナのせいで、婚約式も結婚式もはっきりと決められない中にあるが、それでも本当に信じられないほど感謝だ。
みんみが結婚する!!
イースターの一日 [今日の事]
今日はイースター。
本来ならヨットハーバの近くの公園で、野外礼拝をし、子どもたちとエッグハントをして教会に帰ってきて朝御飯をいただき、進級式やら分級を持って、イースター礼拝を捧げる予定だった。
(ちなみに、イースターの朝ごはんは、もう何年も同じで、何種類もの手作りおにぎりと、20種類ほどの具の入った美味しい豚汁である)
ところが、今年は新型コロナウイルスのために、野外礼拝も朝食も子どもたちの進級式も、もちろん合同のイースター礼拝も持つことは出来なかった。
それぞれの家庭で、ある方はネット配信される礼拝堂で奉仕者だけで行われる礼拝を見ながらともに礼拝し、ある方はネット配信を受け取ることができず、配布されている礼拝の聖書箇所を見ながら、個人的な礼拝を捧げる。
忘れられないイースターになった。
私たちは礼拝が終わると、こまごました用を済ませて帰宅した。
「なんだか元旦みたいだね」と夫は言った。
本当に。
礼拝を捧げて、そのお昼には家にいるなんて、一年でも元旦にしかありえないことだ。
いっちとみんみは、豚汁がなかったことを残念がり、私は今日のために練習していた聖歌隊の賛美がなかったことがとても残念ではあるけれど、十分な練習ができていなかったこともあり、複雑な思いながらも少しホッとしながら午後の時を過ごした。
今日は、夜決められた時間に、東京のたかとラインで繋がり、ともに祈りの時を持つことができた。たかは、仕事先の書店がしばらく閉店になり、収入が半分になるだろうからと、今月の家賃が払えなくなるだろうと心配していた。それでも、今日はスーパーで少しの野菜を買って、食費の節約に頑張っている。
神様。祈ります。
「いと高き方の隠れ場に住む者
その人は 全能者の陰に宿る。
・・・・・・・・・
主は、ご自分の羽であなたをおおい
あなたはその翼の下に身を避ける。
主の真実は大盾 また砦。」
今日の一日 [今日の事]
今年の誕生日にいっちが買ってくれたマーガレットが、すごい勢いで蕾を生み出しては咲き始めている。
明るいピンクの花びらだ。
私は自分で勿忘草を買って植えた。ちっさい花だらけのベランダで、一つ一つのプランターを覗き込んでは満足している。
この頃、物忘れや勘違いが多くなり、13年前に両親が引越ししてきた時に、父が自分の状態を不安に思い、認知症外来に連れて行ってくれと言ったことを思い出した。
幸い父が心配していたアルツハイマーではなかったし、医師が「自分で認知症外来に行きたいという人はアルツハイマー型認知症ではない」といわれた。
しかし、父の心配はつのり、もう一つの病院に行って調べた結果、レビー小体型認知症という診断が出たのだった。
たった一年でも、人は変わってしまう。健康状態も環境も、生活も。
両親の一年を思い返し、たった一年しか経っていないのだと改めて驚く。
それでも、一年は一日一日の積み重ね。
今日の一日が、どの一日とも違う、今日だけの一日なんだな。
先週、頭痛と吐き気(実際にマーライオンのように吐いて、みんみがとても驚いた笑私も驚いた)で三日ほど寝込んだ。熱もなく、咳やその他の症状はなかったが、悪寒がしてとにかく頭が痛かった。悪夢が続き、ああ、私は頭がおかしくなるのだなあ・・・と思ったほどだった。ようやく二日目に食べたおかゆを全てもどしてしまったので、三日目にようやく起き上がった時に体重を測ったら、三キロ減っていた。
三日で三キロかあ、などと思った。
原因もわからずそのままだけれど、年を重ねていくってことはそういうことなんだなと思った。不調の時もある、無理はしないし出来ないし。
それでも一日は、この一日だけ。
ベランダの花を見、空を見上げ、家族の中で一日を過ごし、こまごましたことを一つ一つ片付けながら、明日のことを心配せずに、物忘れがひどくなり、勘違いに悩み苦しみながらこの一日を過ごしていこうと思う、よ。
その間で [その他いろいろ]
相変わらず空を見上げている。
夕方の空が多い。
慌ただしい一日の締めくくり。
必死に自転車を漕いで、信号で止まると、深いため息をついて空を見上げる。
買い物の帰りに、お店を出て自転車置き場まで歩く間に空を見上げる。
父の病院は面会が自粛ということで行けなくなったが、空を見ているとなぜか心は平安になる。
ほとんど目を開けることがない父は、廊下側のベッドに寝ていて、窓の外を見ることはできない。
明るい陽がさすときも、暗く雨音の響く日も、静かに寝ているだろう。
空がどんなに青くても、雲がどんなに美しく流れていても、夕方の空の白い薄い月も、その目で見ることはないけれど、父の心の中にはその全てがあるだろう。
私がどうしてこんなに空が好きなのか。わからないけれど、同じ町に住むようになって、父と出かけるときはいつも空を見上げてはともに感動したものだ。
下を見ると父の大好きな小さな花々が咲いている。
上を見ると天が開けている。
その間で生きている。
日々のこと [今日の事]
昨日は19時からのミーティングがあったので、早めに夕食の支度をしようと思っていたが、なぜかしなくてはならない事が多くあって、買い物に出かけるのが遅くなってしまった。
実は、昼過ぎから大根を煮ていたので、おでんにした。
なぜ大根を煮ていたかと言うと、夫の体の調子が悪かったからだ。
ストレスと忙しさのせいだと思うが、十分休む事のできない日々が続いていいる。負っている重荷を思うと、私なんかはどうする事も出来ないと思って、落胆する事も多いけれど、せめて美味しいものを食べてもらおうと思っても、彼は疲れが胃腸に出るので、なんでもいいとはいかないのだ。
とにかく遅くに買い物に出たら、なんと雨が降っていた。
細かい氷のように冷たい雨だった。それでも、本当に細かい雨だったので、自転車で出かけた。
クリーニングにシャツを出し、100均で探していた小物入れを見つけて購入し、
スーパーに行き買い物をした。その短い間に雨は上がり、夜空には晴れ間が見えていた。もうすでにミーティングの準備をしなくてはならない時間になっていたので、慌てて家に向かって自転車を漕いでいた時、ふと顔を上げて空を見ると、綺麗な月が出ていた。金曜が満月だったから、18夜の月だ。頭を回して西の空を見ると、金星。
慌ただしい時を過ごしていても、空を見上げるといつもと変わらない美しい月や星や雲がある。それで良い。それが良い。
今日は貴重な晴れの日。
大物の洗濯をして、細々とした重要な(重要な細々とした事って・・・)仕事を片付けている。いつもの変わりない1日だ。
気持ちは沈んでいるが、しなくてはならない事があると言うことは感謝なことではあるのだなあ。
昨日ベランダにツグミの仲間のシロハラ(妹の旦那さんに教えてもらった。彼は野鳥の会のメンバーなのだ)がきてくれた。ひとしきりベランダをウロウロして、プランターの陰をかぎまわり、ずいぶん長い間留まっていた。餌は見つかったのかな。
その日その日の食べ物をそれなりに探し出して宿りに戻って行く鳥たちも、晴れの日も雨の日も、寒い日も暑い日も、変わらない憐れみと愛と恵みの守りの手の中にあることを知っている。知っている?そう、知っている。
私は?
知らなくてはならないことさえも知っていないと思わされている。
前に・・・前に進んでいかなくてはならない。
それでいいや [家族の事]
「人格的責任範囲」
と言う言葉があるのだそうだ。
昨年父と母の介護が大きく重くなり、時間的にも体力的にも精神的にも生活の大部分を占めるようになった。夏前からは食事作りも始まり、それまでなんとか二人分を作っていた母が、とうとう体力的に難しくなり、作り置きをしたり、買ってきたもので済ませることもあったが、毎日うちから二人の食事をトレイに乗せて運ぶようになっていた。若者達と同じというわけにもいかず、両親の食事は別物であった。また、父と母の食事も違うものであった。
父がデイサービスやショートに行く日は、朝の父の支度と準備と迎えの時間を気にしながら過ごすようになり、往診や処方される薬を取りに行くことや、そのほかの細々した日々の仕事も、こなさなくてはならず、嫌だと思ったことは一度もないが、頭も心も体もそれらのことでいつもいっぱいだった。
そのため、自分の仕事としている様々なことに手が回らなくなり、1日かかるミーティングや、長期にわたる継続的な仕事はほぼ全て誰かに委ねざるを得なくなった。また、教会の中での奉仕なども、出来なくなり、ほかの人に代わってもらうことが多くなった。
その事は私にとって本当に幸いであった。
それは、楽になるとか、時間ができるとか、そういうことではなく、「人に委ねる」ということを学ばされ、「誰かを信頼して任せること」に安心を覚えることができるようになった。
なんでも自分のように出来なくても、思ったような仕上がりでなくても、計画していたことが変わってしまっても、それでも良かった。「良かった」と思えるようになった。
それは、多分、私の中の優先順位がはっきりしたことも理由の一つだろう。そして、自分の人格的責任範囲を見出すきっかけにもなった。
それは「私でなく」全てを導いてくださる方の完全を信頼することを教えられたからだろうと思う。それは大きなことだった。
「こうでなければダメだ」
「こうあるべき」
「ちゃんとしなければ」
「きちんとしなければ」
囚われていた様々な括りや拘りが、一つ一つ解かれていった。
ゆっくりでなければ進まない介護。急いだって何にもならない。父には父の「時」がある。父には父の「タイミング」がある。どんなに時間がかかっても、急ぐことにはなんの益もないということを学んだ。きちんと出来たからといってそのこと自体にも意味がないことも、あっという間に覆される出来事に学んだ(笑)
「なんとかなる」ということの根拠は「愛」だ。そして「赦し」なんだな。
11月に激変した生活に、心がまだついて行けないのだが・・・。
自分を知ることの難しさと平安。
不安定な自分に失望することなくそれを受け入れるということの充足。
傷ついたところに滲み透る「それでいい」という潤い。
「あなたの深いご計画の中で与えられたこの一年の重さと大きさと深い意味を改めて思い返しています。主よ」
父のこと [家族の事]
まもなく一年が閉じようとしている。
12月の9日の夜、父がお世話になっていたショートステイの施設から「三十九度の高熱が出ておられるので、救急車で搬送します。」という電話が入った。
様々な理由で、父は隣町の病院に搬送された。これはあり得ないことで、施設が提携していて紹介状などを書いていただける病院でもなく、施設が建っている市内の救急病院でもない。11月に誤嚥性肺炎で入院した病院でもない。救急車は市を超えて、普通30分以上かかる隣町の病院に父を運んで下さった。
そこは、母がお世話になっている病院で、妹の家からすぐ近くで、今仮帰宅で妹の家に母が滞在しているため、母が会いたいと思ったらすぐに会いに行ける場所にある。担当になった医師も、母がお世話になっている院長も皆「よくここにこられましたねー。」と言われた。不思議だけど、神様はちゃんとわかっていてくださる。
高熱の原因は誤嚥性肺炎であったと思われる。わずか一ヶ月の間に二回の肺炎発症と入院は、父の様々な力を弱らせたと思う。
絶飲絶食で何日も過ごす間に、既往症(心筋梗塞、難治生喘息、レビー小体型認知症、パーキンソンなど)の薬を飲めず、咀嚼も嚥下もせずに過ごす。
そして、その週の金曜には療養型病棟に移った。
家族の生活や意識は激変したと思う。私は、毎日一日中父のことを考えて生活していた日々から、誰もいない部屋と空のベッドを見るたびに、おそらくもう元には戻れないと言う事実を突きつけられて心が凍えた。
こんなことがあったことを思い出した。
1回目の入院から戻った11月のある日。食事を終えた父は、珍しく目を開けていた。布団をかけて「しばらく横になりますか?」と言ってベッドを倒そうとした私の顔を横目で見た。うまく首が動かないようだった。
そして、ゆっくり両手を広げた。
そんな風に父が体を動かすことはほとんどない。私は父が両手を広げたことに驚いて、その手をとった。すると父は、しっかりと握ってその手をゆっくりと上下に振り、また何度も交差させて、まるで小さい頃に遊んだようにそれを何度も何度も繰り返した。
私は驚きながら父を覗き込んだが、そのとき父がおぼつかない口調で言った。
「○○○かい?」(長く住んだ北海道弁)
それは私の名前だった。
ほぼ3年ぶりに聞く、父が私の名前を呼ぶ声だった。
そして、大きく腕を広げて私を抱いてかたく抱きしめた。
私も父を抱きしめた。
それを二回繰り返した後、父は手を胸の上において「大丈夫」と言った。
私は驚きと恐れで胸がいっぱいになった。
これはなんだろう・・・。今までこんなことはなかった。
こんなにはっきりとしている父を見ることも、私の名前を呼ぶことも。
なんだか嫌な予感がして、その場を立ち去り難く、しばらくして目をつぶって休む父の顔を長い時間眺めていた。
けれども、父はその日も変わりなく終え、次の日も次の日も以前と同じようだった。声を出すことも稀で、口から出るのは「大丈夫」また本当に時々「すみませんね」「ありがとう」と言う、とつとつとゆっくりとかすれかすれにいう言葉だ。
ほとんどの1日を目をつぶったまま穏やかに過ごしていた。
一回目の退院後にミキサー食に変わり、家でもそのような食事を用意していた。そして、12月にショートステイに行ったのだった。
朝ドラを見ていて、主人公の父が、その死の間際に手を伸ばして主人公の頭を撫でるシーンに涙が止まらなかった。
病院にいる父を見舞い、こっそり足に薬を塗ってマッサージして帰る。療養型病棟だから、お見舞いの時間も気にしない。
でも、父はいつも目をつぶったまま、わかっているのかわかっていないのかもわからない。そんな父を見ることも辛い。でも多分、この時間もまた与えられている掛け替えのないときになるんだろうな。
今日は父のこと。記録しておこうと思った。
晴れの日 [今日の事]
今日はぴかぴかのお天気だった。
昨日も一昨日も、なぜか一日中自転車で走り回っていた。とは言っても、月曜は父が家にいたので、出かけては戻りを繰り返したのだが…。
昨日は、父の昼食の薬を、デイサービスの持ち物の中に入れるのを忘れて、お届けに行った。一旦帰ってから、郵便物を出しに行ったり、家賃を払いに行ったり、買い物に行ったり…。まとめて行けば良いのに、思い出すのが遅いんだよね。
今日は、ハウスクリーニングが来て、浴室とエアコンが綺麗になった。嬉しい。そのあと往診のお医者さんが来られ、合わせてケアマネージャーが来られて一月の打ち合わせ。その合間に、浴室の壊れている換気扇の工事の打ち合わせの電話や、父の介護用品の点検日の確認の電話やらが続いた。なかなかに慌ただしい1日だった。
朝から色々あって父の寝間着とタオルケットを洗濯しなくてはならなくなり、大物、厚物なのでお天気が良かったのは本当に嬉しかった。
その合間にキッチンのレンジフードを綺麗に掃除する。金曜日に母が一時帰宅するので、なんとか間に合わせたかったのだ。
夕食の買い物をし、家に帰って食事を作り家族を一緒に食べる。父の食事はその後だ。なかなか目覚めて咀嚼し飲み込むことが難しくなっているので、目が醒める時間を見定めるのが大切。
一日の食事のカロリーを計算する。まあ、動かないで1日寝ているし、どれくらいの量が必要なのかわからないのだが、誤嚥性肺炎で入院して、初めの4、5日間絶食絶飲(もちろん点滴はしていたけれど)で過ごした父はそれでも少し痩せた。
なんとか体力を維持してほしいなあ。
今日はクリスマスソングをBGMにして夕食を食べてもらった。さくさく噛んで飲み込む父に「ありがとう」と声をかける。食べられるということはなんと感謝なことだろう。食べている父を見られる私はなんて幸せなんだろう。
寝支度を終えて電気を消し「おやすみなさい」と挨拶をする。明日はデイサービス。多くの人たちの中で、たくさんの楽しい刺激を受けて、愉快に過ごしてほしい。父は、何もわからないように見えるがきっとわかっている。
接する人の心を。
その愛を。
神様の憐れみを。
生かされている意味と人生の目的を。
「待つこと」 [その他いろいろ]
私は、ずっとなんでも速やかに手際よくことを行うことを良しとして来た。
「仕事が早い」と言われ、そのことを恥ずかしいことに誇りとしていた(笑)
仕事をするときには、頭の中で次のことを考え、その手順を想定し、どう動いたら能率的になし終えるかをいつも考えていた。
ここ数年、物事が速やかにはいかないこと、手際良くしようとしてもできない状態、とても能率的とは言えない方法を使わなくてはならないこと、次に何が起こるのかを想定できない状況の中で日々を送るようになり、自分としてはイライラするかと思いきや、これが・・・。
「待つこと」は次に至る出来事までの過程を、どのように過ごすかによって全く違うイメージが出来上がる。
「待つこと」は自分のことだけ考えて入ればいいと思っている間違った思考を、周りの状況や周りの人々へと目線を変えて思いやる者へと私を変えてくれる。
「待つこと」は想像への世界が広がること。
「待つこと」は、愛を増してくれる。
「待つこと」は備えの大切さを教えてくれる。
「待つこと」は私の忍耐力を鍛えて、謙遜を学ばせる。
「待つこと」によって、のちに起こる全てのことを受け入れようとする力をうちに与えられる。
「待つこと」は、その間の一瞬一瞬を楽しみ慈しむ思いを起こしてくれる。
明日からアドベントに入る。
この闇に満ちた世界に、救い主は最も弱い赤子の姿をとっておいでになられた。
クリスマスを待ち望むこの季節は、喜びの季節であり待望の季節だ。
そして、この小さな私の日々にも、「待つこと」の重さと深さを教えてくれる季節だ。いつか栄光の主が来られる時を待ち望みつつ。
隙間の三日月
長のお休み [家族の事]
長い長いお休み。
前回ブログを書いてから一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
状況は大変化した。
母は退院のない入院生活に入った。
白血病と膀胱癌、どちらも手術も抗がん剤の治療もできない年齢と体力。
緩和病棟に入り、対処療法で過ごしている。
一人部屋では寂しいと言って大部屋に入ったが、ほかのベッドの方々は話すことも歩くことも出来ず、胃ろうして全て看護師の介護によっている。
母だけが、真っ白の顔をしながらよろよろと自力でトイレに行き、自分で食事をなんとか食べている。毎日尼崎の妹が顔を出し、洗濯物や必要なもののお世話をしている。私も訪ねては、昔話をしたり、窓の外を遠く飛ぶ飛行機の離着陸を一緒に見ては「健気で涙が出る」という母と笑いあう。
父は寝たきりで全介護の状態のままアパートに一人になる。
ということで、四人の姉妹が代わる代わる泊まり込みでお世話をしている。
それでも、週三回のデイサービスや、月一回か二回のショートステイに助けられている。父も、ショートに行ってはリハビリの余韻で帰ってからも足を動かしたり、覚醒して目を開けて受け答えをしっかりしたりして嬉しい。
夫が検診で心臓に問題があることがわかり、専門病院に行ってカテーテル検査をしたり薬が処方されたり。精密検査も進められて、難病指定が出るかもしれないなどと脅かされたが、とりあえずはそのまま。夫婦共々お互いに労わりあって(笑)過ごしている。
父の介護の間は、両親のアパートに泊まり込みになるので、夫は食器の洗い物、洗濯物など細々と自分からしてくれるようになった。
かつての私はその事が自分の怠惰のせいのようで耐えきれず(苦笑)無理をしても頑張って自分でやったものだが、いまは時間的にも体力的にも助けてもらわなくては出来ないことばかり。
そんなこんなでブログを書く時間もなかったし、書けなかった。
いつかこの時は過ぎて行き、懐かしく寂しく悲しく思い出す時が来る。
それは必ず来るのだ。
この日々をなぞりながら、涙を流す時も来るだろう。
だからこそ今を大切に過ごしたい。
かけがえのない時をそのように思いながら過ごしたいと思う。
関東の妹が来てくれて、北でのお仕事がある私たちを送り出してくれた。
幼い日の友人宅は朽ち果てて、主人の居場所もわからないが懐かしい花は咲く。
砕氷船の出る川の河口近く。暮れゆく秋の空を見上げる。
そして雁が渡って行くのだ。
母が入院
母が入院した。
2年前から骨髄異形成症候群を患っており、毎週ネスプという腎性貧血の注射を受け、6月初めにはヘモグロビンの数値が限界を超えて低くなり、輸血も受けてきたがやはり病状は進行していた。
先週改めて骨髄検査を受けたが、昨日結果が出て白血病発症の疑いがあることがわかり、白血球内部の芽球(未完成の白血球、腫瘍の様なもの)が発生しているために、抗がん剤に当たるビダーザという注射の治療を始めることになった。
来月89歳の誕生日を迎える年齢としては、その様な治療を受けることが母のために良いのか悩んだが、4姉妹で相談し、母の気持ちを確認して治療を受けることにした。
今朝、ばたばたと入院の支度をして、隣町の妹の車で出かけて行った。私は父がいるので、家に残り、今日は実家に泊まることにしている。寝たきりの父は、レビー小体型の認知症のため、母の病状のことも今回の入院のことも話しても理解できない様子。
何年か前に母が、静脈瘤で緊急入院した時の父は大変だった事を思い出した。心配して心配して、疑心暗鬼になってしまって私たち娘の言葉さえ信じられず、不安で顔つきまで変わってしまった。
よく理解できず、平安で過ごしている今の様子を見ると、これで良かったのかも知れないと思う。
人生は始まった時から終わりに向かっているのだ。
どの様に生きるのか。
どの様に終わりを迎えるのか。
私たちにはわからないことももちろんたくさんあるけど、終わりがくるのはわかっているのだから、心は備えて生きたい、と深く思わされた。
移り変わるベランダ [今日の事]
今年初めの誕生日にいっちがくれた勿忘草の苗は、あっという間に大きくなって満開の花盛りを見せて、春の終わりとともに枯れていった。
その頃に、ゴーヤと紫蘇とスイートバジルを植え、ついでにわけぎを大量に植えた。ゴーヤも紫蘇もバジルもすくすくと育ち、わけぎは何度も根元から収穫して楽しんだ。さらに、わけぎが終わった頃に二本の胡瓜の苗をいただき、一番大きなプランターに植えた。こちらも、ゴーヤとともにネットを這い上って育ったのだが。
今年はもう梅雨に入り、それぞれがわやや。
紫蘇はいつものように虫にやられて、葉がレース状態。
ゴーヤは初めこそ勢いがあったのだが、次第にほそぼそとなり、花はつくのに一向に実が生らない。全く生らない。びっくりするほど生らない。
胡瓜の方はというと、大きな葉がたくさん出て、蔓が伸び、次々花が咲くが、こちらも一向に実がならない。肥やしをやっても、実がならなかったのだが、ついに一個!ちゃんと!胡瓜が!実った!大喜びで、出かけている夫に見てもらってから収穫しようと待っていた。
ところがである。
昨日は夜に至っても大風が吹いた。吹き荒れた。
今朝、ベランダに出て胡瓜を見てみるとないっ!!大きくなって立派な胡瓜だったのに、どこにもないっ!
家族みんなに聞いたが、誰も知らないという。
みんみは「大風で飛ばされたんじゃない?駐車場に落ちてるかも。」などという。
そんなことある?
家の中から呆然ときゅうりを見ていたら、大きなカラスがやってきて、繁々と胡瓜を観ている。カラス??いやいや。まさか。
今わかっていること。
幻だったかもしれないが、育った胡瓜はもうない。一個もない。ということ。
梅雨だから仕方ないんだよ [想い出いろいろ]
飛び飛びに続けている聖書の通読箇所が列王記に入り、読み進む中で鬱々としてくる。聖書にではなく、その記事にではなく、人の弱さと愚かさと罪深さと情けなさに…。我が身を省み、何千年経とうと人の本質は大きくは変わらない。本当に変わらない。
変わらないんだよなあ・・・・。
時は梅雨。
気圧も低いし、空も低い。
空気は重いし、体も重い。
この季節はそんな風に過ごすのがあっているのだろうなあ。
北海道に住んでいた頃、もう50年前だけれど、梅雨なんてなかった。
今は気候も変わり、梅雨のような季節があるのかな。
たまに夏の雨が降り、傘をさし、長靴を履いて、水溜りだらけのデコボコ道を歩く。
大きな水溜りがあると嬉しくて、わざわざ真ん中を通って行く。
水溜りの中の石は綺麗で、飽きずに眺めては目的地に着くのが遅くなっていた。
遅くなっている事にすら気がつかなかった。
あの頃に比べ、今の私はなんとせかせか生活している事よ。
変わってしまうことと変わらないこと。変わっていいことと変わってはならないこと。そんなことをのろのろと考えながら、答えが出ても出なくてもいいか…などと思い、はっと気がつく。答えを出すために考えているのではなく、考えるために考えている自分に。
ちゃんと答えを出せる自分よりも、ぐるぐるとのろのろと考えるために考えている自分がいいなあ〜なんて思ってしまう。
「ちゃんとしなくちゃ!」の私はだんだん年老いてきて「まあいいか〜」の自分に変わってきているのだな。
いいのかっ!?
いいのだ・・・・・。
いいなあ〜。
!疲れた! [今日の事]
自分が還暦を迎えるときのことなんて、想像もしていなかった。
♩村の渡しの船頭さんは今年60のおじいさん♫
なんて、何の違和感もなく歌ってたしね。
そうよ。
まさか自分がその年になって、「おじいさんっ!!!?」と思うなんて想像もしなかったですよ!
自分にとっては60を過ぎたとしても、今日は昨日の続きなのよ。
とは言え、あちこちに不都合も出てくる。
記憶は衰える。
体力も衰える。
できていたことができなくなる。
無意識でしていることに驚く。(え?これやったの誰?てな感じ)
全ての人が経験していることなんだなと思う。
全ての年齢を重ねている人々が経験しているんだよ。言わないけど。
そのことをどのように受け止めていくか。
そこだよね。
もしかしたら、何かの症状が起きている兆候なのかもしれない。
も始まっているのかもしれない。(うわー)
年齢を重ねていって、自分がどうなるのかなんて誰にも予想はつかない。
今できていることが明日もできるとは誰も保証ができない。
自分でも思って安心していてはいけない。
ああ、全てを柔らかく柔軟にありのままに受け入れていくことができますように。
それでも神様の恵みは私に充分であると感謝することができますように。
あとで、この文章が恵みの証になりますように。
これからの人生がどのようであっても神様の恵みは充分!
取り留めもない事 [その他いろいろ]
五月だと言うのにこの暑さ。
私の周りのみんなも声を揃えて「夏はどないなるんや」と嘆いている。
今週に入り少し落ち着くみたいだけれど・・・。
気温の変化や習慣の変化によって、体調や精神的にも大きな影響を受ける。
還暦も過ぎて老いていく我が身の行く末を考えると、どのように与えられている人生の時間を過ごすか、人間関係を糾していくか、何をするべきであって何をするべきではないのか。備えと言うよりも現実問題として考えていかなくてはならない。今現在の生活とも無縁ではないのだな。これが。
今年3月からいきなり持病の数値が悪くなり、原因もわからず、毎回診察に行ってはがっくりして帰ってくる。どうしてなのか・・・何が悪いのか・・・何も変わっていないのに、何も変えていないはずなのに、なぜ数値が悪くなったのか・・・わからない。
原因がわからないって本当に身体にも心にも悪いねえ。
また6月の診察日が近づいてくる。
優しい看護師さんたちは慰めてくれるけど、数値は過酷で正直だ。
昨日は奇跡の手の先生の整骨院に行き「いっったあーーーーい!!」と叫び声を上げてきた。隣のベッドにいたみんみは笑っていただろうよ。
痛いんだよ!!!!
筋肉が硬くなっていること(柔らかくするため鍼を打ち指圧する)
むくみが溜まっていること(老廃物がよく流れるようにマッサージする)
「リハビリしてくださいね」と優しい声で言われても、容赦ない指圧とマッサージの受けた後では、心の中で「い!や!だーーー!!!」と叫ぶしかない。
わかっているんだけど、施術の後にどんなに軽くて柔らかくなっていることか!
わかっているんだけどね。
日々の努力というものは、何であれ苦しく難しく成しがたいことですわ。
とりあえず、今日の1日を喜んで過ごそう。
取り留めのないことに頭を悩ませながらそう思ったよ。
振り返りの時間 [その他いろいろ]
月曜日に、年に二回、春と秋に集まる仲間たちの会があった。
それぞれ所属する団体は違うけれど、皆同じ立場で日々切磋琢磨している。
年にたった二回の集まりだけれど、私はどれほどこの日を楽しみにし待ち望んでいる事か・・・。また、仲間達もそうだと信じている。
今回は新しい参加者もあって、新しい展開もあった。
到着してすぐに、友人が入れてくれたハーブミルクティをいただく。これがっ!こんなに美味しいハーブミルクティは初めてで、もう一気に飲んでしまった。ああ、来て良かったと改めて思った。(美味しいものには弱いのだ。)
静まりの時を持つ前に、静かに時間をかけて深呼吸をするのだが、今回はこれが本当に苦しかった。深呼吸ができないのだ。びっくり。
浅い呼吸が続く。深く吐こうとすると苦しくなる。
静かに息を吸おうとすると苦しくなる。
どうしてなのか・・・。
とにかく、ゆっくり深呼吸をしようと頑張っているうちに時間だけがすぎていってしまったのだった。
ゆっくり考えてみようと思った。深呼吸ができないわけを。
さて、その後で、一人一人別れて座り、青空と咲き誇る薔薇と気持ちの良い風の中で、時間をかけて半年のふりかえりの時が与えられた。
そして、お昼をいただきながら分かち合いの時。
さらに、美味しいお飲み物と手作りの手作りとは思えない最高の和菓子と洋菓子(贅沢極まりない。嬉しい。)をいただきながら、コラージュの時間を持った。
作品ができるとそれぞれの発表と感想の時間を持つのだが、これが毎回毎回大爆笑炸裂なのだ。
こんなに悩みや痛みが深いのに・・・。
お互いのことをそんなに深くは知らないはずなのに・・・。
いろんな思いが錯綜しているコラージュなのに・・・。
涙あり笑いありで、あっという間にお時間となったのだった。
全ての点で満腹して帰途についた。
本当に感謝!そして幸せの時間だった。
ありがとうございました。
お庭に咲いていた薔薇が実に愛らしく美しかったです。
じゃあね。 [家族の事]
レント後半を捻挫の痛みと共に過ごし、喜びのイースターを迎え、あっという間に五月の連休に入ったが、相変わらず、世間はお休みと言ってもほぼ日々変わらずの生活。関東の妹たちに助けられて、少しゆっくりしたかな。
結婚式に出席のために東京に行き、同じく出席したたかに一ヶ月ぶりに会う。式と感謝会が終わった後、優しいたかは、田舎から(笑)出て来た母さんに付き合って、帰りの新幹線までの時間を一緒に過ごしてくれた。カフェに入り、コーヒーを飲み、少し話をして駅の改札口で別れた。優しいハグをして。
手を回した背中は、肩甲骨がはっきりわかるくらい痩せていて、久しぶりに来たスーツはこんなに大きかったっけ?と思ったと言う。
姿が見えなくなるまで見送ってくれたたかは、自分の生活に帰って行く。
私はいつも頑張ってなんでもないふりをする。泣いたら負担に思うだろうし、ベタベタしても嫌だろう。あれこれ世話を焼きたいけれど、始まったばかりのたかの一人の暮らしを邪魔したくはない。
いつまでも翼の下にはいないのよね。
やがては一人で飛び立って行くんだもの。
ここで手を離さなければならないんだよね。
居心地の良い巣から出ていかせなくてはならないんだね。
「じゃあね」と言う便利な言葉で別れるけれど、胸の中には言い表せない母の痛みが満ちている。きっと私の母も、そしてそのまた母も、独り立ちして行く子に同じ思いを抱いていたんだろうな。
私の母は、改札口で帰って行く子を送った後はいつも泣きながら家路についたと言っていた。そんな思いが、子どもたちに重荷にならなくなる時まで、胸の中にしまっておかなくてはならないんだろうな。
久ぶり〜〜 [その他いろいろ]
長いお休みに関東の妹たちも帰ってきて、両親の家はたちまち賑やかになった。父のお世話をみんなでしてくれて、私は何もしなくても良い毎日を過ごした。といっても、実は理由があるのだった。
4月8日の月曜日の朝に、大阪で会議を兼ねた感謝会があり、ホテルでの食事なのでスーツを着て家を出た。久しぶりにハイヒールを履いたんだもん、そりゃあ事故が起きても不思議ではない。
家の前の横断歩道で、自転車をこぎ出そうとしたところで転んだ。ひどく転んだ。そして、車道の真ん中で起き上がれなくなったまま両手両膝をつき、いわゆる土下座状態で固まってしまった。身体中が激しく痛み、左の膝に大きな丸い擦り傷ができ、右足は腰から下が動かなくなった。
幸い車が来ていなかったのと、通りがかったおじさまがすぐに駆け寄って来てくださり「大丈夫かっ?立てるか?」と聞いてくださった。さらに「救急車呼ぼうか?」ともいってくださった。パニックになりながらそれだけは断り「すみませんがお手をお借りできますか?」ときいた。するとおじさまは「もちろん」と言って助け起こしてくださり、その間に止まった車から降りて来た青年が自転車を歩道に持って行ってくださった。おじさまの手を借りて(いや腕にすがってかな…あんまり覚えていない)自転車のところまで行き着き、助けてくださった方々にお礼を言って大丈夫ですからと言って行っていただいた。何と言っても家の前だ。
携帯で連絡して夫に助けに来てもらってなんとか帰った。
膝からは血が流れ、体の右側が痛んで歩けない。
すぐに奇跡の鍼灸整骨院に電話したら午後4時過ぎに予約が取れた。近くの整形外科でレントゲンを撮ってもらい、骨と靭帯には異常がないことを確認した。
実は、その整形外科は、以前私の左手薬指の骨折に際して、継ぎ間違えたと言ってもう一度折ってもいいかと聞いたいわくつきの病院だ。そう言われた私は、血の気が引いて倒れそうになりながら「結構です!ピアノが聞けなくなっても、ペンを持てなくなっても、キーボードがうまく打てなくなっても、雑巾がしぼれれば、雑巾さえしぼれればそれでいいです!(健気)」と心の中で叫んで、継ぎなおしを下がった先生にお断りをして帰ったというなんだかわからない病院なのだ。思い出しただけで血の気が引く。でもその病院でレントゲンは撮影できる。ちなみに、左の薬指は、そのまま曲がってくっついてしまったのだが、ピアノも弾けるしキーボードも打てる。良かった。もちろん雑巾であろうがレモンであろうが、なんでも絞れる。ちゃんとしたグーはできなくなったけど…。
奇跡の整骨院の先生は、私が待合室の椅子から立って診療室に入るのをじっと見ていた。そして「捻挫だけではないですねー。なんか色々ありますね、ふふふ(佐藤健か亀梨くんかあるいはDAIGOかというイケメンなのにサドっ気があるT先生)」
診ていただいた結果「左足首の捻挫、左太ももの肉離れ、そして左側の腰のぎっくり腰ですね、ふふふふ」とT先生は宣言した。(嬉しそう…)
治療の間「ぎゃー!!!」とか「一ったーーーーいっ!」とか「いたっっっ!!いたっっっっっっ!!!」と私が叫び声をあげるたびに「痛いですね(ふふふふふ。注:小声)」と先生は静かに笑っていた。
そうして3週間毎週治療に励んだ。痛かったよーーー。
今は動かさなかったのでむくみがあり、そのむくみの治療がまた死ぬほど痛い。あんまり痛いので、「ちゃんと運動しますからーー(勘弁してくださいーー小声)」というと先生は大笑いする。でもそのマッサージが終わると同じように触っても全く痛みがなくなるのが本当に不思議。事故?から4週間。ほぼ完治と言っていいでしょう。
自転車で走り出す前だったこと、車道の真ん中だったけど車が来ていなかったこと。親切で紳士な(私が手を貸してください、というまでしゃがみこんでそばにいてくれた)おじさまや車を降りて自転車を直してくれた青年がいたこと、骨も靭帯も痛めなかったこと。T先生の予約が取れたこと(いつも予約が一杯)心配して祈ってくれて、家のことも細々助けてくれた夫を始め家族たち。
ただただ感謝です。
なわすれそ [想い出いろいろ]
私の痛いほどの懐かしい思い出のほとんどは、北国の小さな町の小さな教会で育った日々の中にある。
年子で三人の姉妹は、朝から夜寝床に入っても続くごっこ遊びと一歩外に出たら開ける自然の豊かさに夢中だった。
春に夏に秋に冬。いつもいつもどこにいても季節の贈り物に満ちていた世界。
白く閉ざされる冬は、どこまでも青く透き通っていた。
吹雪の日は1日家の中で、本を読んだりカルタをしたり、トランプで遊んだり、折り紙をしたり、母が教えてくれる冬の遊びは限りなく楽しかった。
やがて滴り落ちる雫の音で春が開けていく。
家の前の見渡す限りの(子どもだったからそう見えた)田んぼが耕されて水が入る。
どの道もどの場所も、溶けた雪でぐちゃぐちゃで、でも吹く風の匂いは新しい春が来ていることを教えてくれた。
やがて一斉にすべての花が咲き始めるともう夏は近い。
夏のトンボやカエルや様々に咲き乱れる花。
遠くに見える大雪山とその手前に見える北見富士。
短い夏はすぐに過ぎ去り、風に冷たさが混じり、やがて雪虫が飛ぶ。
家ではそろそろクリスマスの準備が始まる。
遠い札幌から、クリスマスグッズと教会用品と本をたくさん積んだ車がやってくると、夢中になってはこの中から出てくる品物に魅入った。綺麗なクリスマスカードはアメリカの匂いがしたし、表面に飾られているキラキラの模様は、本の中でしか知らない違う世界を思わせた。
夜、寝間着のままでそっと外に出て見ると、凍るような空気の中で静かに暖かく雪が降り積もっている。空を見上げていると、凍える手足のまま空に昇っていくようだ。
吹雪の日があり、日が差して目が開けられないほど雪が輝く日があり、静かに雪が積もっていく日があり、そうして少しずつ終わらないと思えるほど長い冬が通り過ぎていく。
冬には凍ってしまう武華川(無加川とも書く)が少しずつ動き始めて、やがてまた春がやってくる。
川岸に植わる柳の木は、春になると薄緑の優しい新芽をたくさん付ける。
そんな書ききれないほどの思い出の中心にその教会はたっていた。
私たちの家。
私たちの教会。
この春雪が消えたら解体される。
建てられて約60年。よく持ったほうだと思う。
もう人の住まない家は、残念だけれど荒れてしまう。
さようなら。三角の青い屋根。
さようなら。塔の上の十字架。
さようなら。小さな教会。
そしてありがとう、ありがとう、ありがとう。
春なのにね、いや春だから。 [今日の事]
春がやってきた、大量の杉の花粉とともに。
街路樹は花芽を膨らませ、草には蕾がついて、もう花を咲かせている雪柳などを見かける。朝陽は柔らかに照り、気温は上がり、杉の雌花を膨らませ、風は温かくそよぎ花粉を遠くまで飛ばし、さらに撒き散らす。
こんなん書いてるだけでくしゃみが止まらない。
目も耳も鼻も痒いし痛い。
季節は巡り、過たずに飽きもせずに繰り返す。
人間ドックで引っかかり、2月の終わりに大腸内視鏡検査を受け、ポリープ二個の切除手術を受けた。
今日結果を聞きに行った来て、先生に「どうしてポリープができるんでしょう」とお聞きしたら「さあわかりませんねえ。どうしてガンができるのか、という問いの答えと同じくらいわかりませんねえ。」と少し物騒なお返事だった。
「うんと気をつけて生活していても体を悪くする人もいれば、暴飲暴食いい加減に生きていても元気で長生きする人もいるしねえ。神様に聞いて見ないとわかりませんねえ。」
…そうでっか。
…究極のお答えでした。
そして、今度は胃カメラを飲むことになった。
やれやれ。
還暦を過ぎると途端にあちこちにガタがくる。
そういうもんなの?
初めて経験する還暦だからわかんない。
…当たり前か…
とりあえず、歩けて、美味しく食事ができて、賛美が歌えて、お祈りができて、老眼だけど聖書が読めて…
感謝しましょう。そうしましょう。