それでいいや [家族の事]
「人格的責任範囲」
と言う言葉があるのだそうだ。
昨年父と母の介護が大きく重くなり、時間的にも体力的にも精神的にも生活の大部分を占めるようになった。夏前からは食事作りも始まり、それまでなんとか二人分を作っていた母が、とうとう体力的に難しくなり、作り置きをしたり、買ってきたもので済ませることもあったが、毎日うちから二人の食事をトレイに乗せて運ぶようになっていた。若者達と同じというわけにもいかず、両親の食事は別物であった。また、父と母の食事も違うものであった。
父がデイサービスやショートに行く日は、朝の父の支度と準備と迎えの時間を気にしながら過ごすようになり、往診や処方される薬を取りに行くことや、そのほかの細々した日々の仕事も、こなさなくてはならず、嫌だと思ったことは一度もないが、頭も心も体もそれらのことでいつもいっぱいだった。
そのため、自分の仕事としている様々なことに手が回らなくなり、1日かかるミーティングや、長期にわたる継続的な仕事はほぼ全て誰かに委ねざるを得なくなった。また、教会の中での奉仕なども、出来なくなり、ほかの人に代わってもらうことが多くなった。
その事は私にとって本当に幸いであった。
それは、楽になるとか、時間ができるとか、そういうことではなく、「人に委ねる」ということを学ばされ、「誰かを信頼して任せること」に安心を覚えることができるようになった。
なんでも自分のように出来なくても、思ったような仕上がりでなくても、計画していたことが変わってしまっても、それでも良かった。「良かった」と思えるようになった。
それは、多分、私の中の優先順位がはっきりしたことも理由の一つだろう。そして、自分の人格的責任範囲を見出すきっかけにもなった。
それは「私でなく」全てを導いてくださる方の完全を信頼することを教えられたからだろうと思う。それは大きなことだった。
「こうでなければダメだ」
「こうあるべき」
「ちゃんとしなければ」
「きちんとしなければ」
囚われていた様々な括りや拘りが、一つ一つ解かれていった。
ゆっくりでなければ進まない介護。急いだって何にもならない。父には父の「時」がある。父には父の「タイミング」がある。どんなに時間がかかっても、急ぐことにはなんの益もないということを学んだ。きちんと出来たからといってそのこと自体にも意味がないことも、あっという間に覆される出来事に学んだ(笑)
「なんとかなる」ということの根拠は「愛」だ。そして「赦し」なんだな。
11月に激変した生活に、心がまだついて行けないのだが・・・。
自分を知ることの難しさと平安。
不安定な自分に失望することなくそれを受け入れるということの充足。
傷ついたところに滲み透る「それでいい」という潤い。
「あなたの深いご計画の中で与えられたこの一年の重さと大きさと深い意味を改めて思い返しています。主よ」
2020-01-25 22:35
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