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なるほどだわ [家族の事]

欲しいものは欲しいと言う。

言ったからとて手に入るとは限らない。

入らないから大泣きする。

好きなものは好きと言う。

たまに笑われたりする。

笑われたことがわかると大泣きする。

大事なものは握りしめる。

・・・離さない。

そのまま潰れることもあるから大泣きする。

あるいは取り上げられることだっってあるから大泣きする。

自分の気持ちを大切にする。

大切にしたいけど、時々自分の気持ちもわからない。

自分の気持ちもわからないから泣く。

しみじみ泣く。


なるほどね


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おんなじだね

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なるほどね [家族の事]

欲しいものは欲しいと言う。

好きなものは好きと言う。

大事になものは握りしめる。

・・・離さない。

眠くなったら寝る。

自分の気持ちを大切にする。

なるほどね。

シールと梢.jpeg
アンパンマンのシール。
アンパンマンは最強。

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花の思い出 [家族の事]

ミヤマリンドウ.jpg

深山竜胆は父の好きな花であった。

父は紫色の花が好きで、私は竜胆や桔梗などよく買っては父の家に持っていって飾った。


初夏から秋口まで、高い山の低いところに咲くこの花を、写真にとってはブログに載せたり、引き伸ばして額に入れて飾ったりしていた父は、群生する小さな花が好きなのかなあと思っていたが、姫百合も好きな花だったから、有名で派手な花壇などで育てられる花ではなく、あまり知られていない山などに咲く探さないと見つからないような花が好きだったのかなと思う。

米沢にいて体が元気な時にはよく西吾妻に登ったりして花の写真を撮っていた。

亡くなってから荷物の整理をしたら、山ほどそんな花の写真が出てきて驚いた。


お父さん。山にさく小さな花が本当に好きだったんだなあ。


ちなみに私は、毎年誕生日にいっちがくれる勿忘草が何より好き。

花そのものも好きだけれど、その花には幸せな思い出がいっぱい詰まっている。


父ももしかしたら、そんな思い出があったのかもしれないと思う。

深山竜胆・・・みやまりんどうの思い出・・・。

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後姿 [家族の事]

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忘れないこと [家族の事]

今年も1月17日を迎えた。



暗闇の中で鳴り響いた轟音と人々の叫び声と、朝から鳴り止まないサイレンと、気がつかないうちに空にはヘリコプターが次々に飛んでいく。その音とサイレンの音が世界に満ちていた。


あれから28年・・・。


神戸のストリートピアノを1日に次々と回って、慰めの曲を引いてくださったT・Kさん。朝からどうしようかと少し悩んだけれど、決心して出かけた。集まっていた方々はその歌を聴きながらみんな涙だった。


そして今日、いっちからいつもの誕生日のプレゼントが届いた。

「勿忘草」

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私が育った北海道の田んぼ道に、春になると咲いていた大好きな大好きな小さな青い花。

もう何年になるか・・・誕生日を迎える頃に、いっちが忘れることなく送り続けてくれる。


「忘れな草」の意味が、一つではなく次々に増えていく。ありがとう、いっち。

涙が心を慰めてくれるなんて、本当に知らなかったよ。


忘れない・・・。



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一月の誕生日 [家族の事]

今日は孫の一歳の誕生日。

三年前に亡くなった両親にとっては初ひ孫。

まさかみんみが、結婚して!出産して!母になろうとは!


ということで、私の家族関係では一月に誕生日を迎えるのは孫を入れて5人目となった。

父と私と妹二人と孫。


寒い寒い冬の日に生まれたそれぞれ。

棚を整理していたら、私の育児日記が出てきた。主婦の友社から発行された「赤ちゃん読本」である。母が亡くなったときに本棚から出てきたもので、今から65年前のものということになる。

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初めは父が細かい字で書いてあり、退院して家に帰ってからは母の字で記録がついている。一週間ごとに書き込むページになっており、どんなふうに成長していったかが本当に詳しく書かれている。流石に初めての赤ちゃんである。母は28歳、父は25歳であった。

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一歳の誕生日の二日後に妹が生まれており、さらに二歳二ヶ月で2番目の妹がうまれているので、日記は一歳少し前頃から飛び飛びになり、最後の記載は二歳二ヶ月である。

記載は、私が仙台の母方のおばに預けられ、さらにそこから父の実家に預けられる記事で終わっている。

私医は全く覚えがないが、仙台に預けられてしばらくは夜になると「お母ちゃん」と言って泣いていたとか、父の実家ではしばらく「おばちゃん」と言って泣いていたとか、哀れな話を聞いたものだ(笑)


最後の最後まで母は「かわいそうだった。」と、思い出しては涙を流していた。

私は「こんなに幸せに育ったんだからちっとも可哀想じゃないよ。」と答えていた。


そんな事を思いながら、一歳を迎える孫を見ている。

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おかえり・いってらっしゃい [家族の事]

8月に入り、長い出張だったみーの旦那様も無事に本社勤務に戻り、次の現場までの間は確実に家で過ごすことができるということで、ほぼ2ヶ月我が家で過ごしたみーとこっちゃんは、新しい家に再び帰っていき、3人での生活が始まった。

私は、帰って行った後の部屋がそのままであると、なんとも寂しく悲しく心落ち着かないので、帰っていったすぐ後に全てを片付けて元の通りに直す。何もなかったかのように痕跡すらも消してしまったその部屋に、東京からようやく夏の休みを取ったたかが帰ってきた。

9月はいっちもみーもたかも誕生日を迎える。3人とも帝王切開だったので、同じ9月に予定日がわかったとき、産婦人科の先生は「いつにする?(手術のこと)同じ日にする?揃える?」と聞いた。う〜〜〜〜ん。

結果的に5日6日10日となった3人の誕生日である。

ちなみに美知子(亡くなった私の母)の誕生日もやはり9月である。また、夫の弟も9月。

1月と並んで9月はお誕生日のラッシュ月である。


そこで、4日の日曜日の夜に、帰ってきたたかと、みーの旦那さん大くんとも一緒に家族のお誕生日食事会をした。お馴染みのイタリアンレストランを予約して、わいわいと総勢7人(8ヶ月になったこっちゃんも入れて)楽しくお食事会であった。「お誕生おめでとう!」「お帰りなさい!」「お疲れ様!」という挨拶が入り乱れた。私はZOOMでの集まりが6時半からあって、残念ながら序盤で抜けて帰ったのだった。楽しくお食事をして帰ってきたらしいが、夫はほとんど食べなかったという(笑)若者4人に美味しい食事を堪能してもらってよかったよ。


そして、たった3日間だけ家で過ごしたたかは、名残惜しそうに東京に帰っていった。帰ってから「もっとゆっくりできたらよかった」というメッセージが送られてきたけど、帰りたいと思ってもらえる家で本当によかった、嬉しいと思った。


家族の在り方が変わっていく。さらに変わっていくだろう。

当たり前のことだ。けれども、年齢を重ねていくと、その変化に心がついていきにくいということを経験する。いろいろな思いが心の中に渦巻いて、良い思いばかりではない、心配や不安や寂しさや少しの悲しみなどがはっきりとした言葉にならずに心の中に重く残ってしまう。


私もまた父や母に同じような思いを与えながら今ここにいるのだなあと思う。


さらに父や母も、その父母にやはり同じような思いを残してその一生を送ったのだなと思う。


「そうなってみないとわからない。」

よく言われるけれど、本当にその通りだ。そして思った。わからなくていい。そう、わからなくてもいいんだ。そうなって初めて思い至ることの中にこそ、愛や慈しみや憐れみや優しさがある。感謝がある。


ありがとう・・・という思いと言葉があるんだ。


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線路は続くよどこまでも

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孫のこと [家族の事]

7月の初めから、みんみと孫がうちで一緒に生活することになった。

お婿さんが2ヶ月にわたる長期の出張になり、引っ越したばかりのまだ片付かない新居で生活するよりも、その間実家に帰った方が6ヶ月を迎える孫のためにも、みんみのためにも良いだろうとのこと。

リビングの隣にある和室六畳での生活が始まった。今日でちょうど1ヶ月。


小さい人がいると本当に全ての大人の生活は、彼女が中心になるのだなあと実感する。

毎朝起きるとまずすぐにこっちゃん(孫)の顔を見にくる伯母(いっち!)

どんな時もこっちゃんの顔を眺めて時を過ごしてしまう祖父母(私たちのこと!)


ベビーバスでのお風呂から、大人のお風呂に入るようになり、離乳食が始まり、いつの間にか寝返りも上手になり(その割には元に戻れず泣き声をあげる)声をあげて笑い、周りの大人が何をしているのかをじっと見つめる。教会では人見知りがあり、また慣れてくると愛想笑い?もする。


少しずつ少しずつできることが増え、少しずつ少しずつ大きくなっていく。

真剣な眼差しと、愛を信頼して見つめるその目に胸が迫る。


こんなふうに私も、あなたを見つめたい。

こんなふうに素直に必要を求めたい。

こんなふうに心からの笑顔をあなたに見てほしい。

こんなふうにあなたに向かって思い切り声をあげて喜びや悲しみを表したい。

こんなふうに全てに安らいであなたの御手に委ねて休みたい。

このおさなごのように。


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故郷 [家族の事]

5月15日日曜日に、父母の納骨式を無事に終えることができた。

5月らしい気持ちの良い天気だった。

墓地の横にある桜の木には、花はもうなかったけれど、地面には散った花びらがまだ残っていた。

父の故郷に住んでいる叔母も体が悪いのにきてくれて、従兄弟達も東京、仙台からきてくれた。従兄弟達も久しぶりに会うのだと言っていた。


これで一つの区切りがついたとも言えるな。


父がデザインして建てたお墓に、父と母の愛した人たちとともに納骨することができて本当によかった。

米沢のお墓.jpg


この旅の間には思うところもいろいろあったが、とにかく一つの区切りであることは間違いがないな。なんとも言えない想いではあるけれど。

もう一つ、やはり30年両親が過ごした土地は、ある意味で故郷でもあるのかなと思った。実際考えてみたら、私はその土地に3年ほどしか住んではいない。それでも、折りあるごとに帰る家としてその家庭はあったのだから。


懐かしい景色、懐かしい食べ物、懐かしい人たち。

行ってみたいところは多かったけれど、今回は次回のために少し行かずに残しておいた。懐かしく胸の痛む場所はいくつもあるけれど・・・。またの機会を楽しみにしよう。


雪の跡を残す山を見上げていると、すぐそばに父や母がいるような気がする。

そんなことを思った旅であった。

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帰るところがあるよ [家族の事]

まもなく5月を迎えようとしている。

花々は咲き、空は青い。

そして、父母が召されてまる2年が経とうとしている。

ずっと前のことだったような、ついこの間のことだったような気がする。


今年の5月には、父母が最後に仕えていた米沢の教会の墓地に、父母の分骨を納骨していただく予定だ。コロナのために今になってしまった。

四姉妹でどこかに出かけるのは、多分初めて。

さらに、神奈川の妹の家に置いてある遺骨を持っての家族旅行だ。


相変わらず道を歩いている時に、花を見ても空を見ても、鳥を見ても木々を見ても呼びかけている。「お父さん。花が咲いたよ。この花好きだったね。」「お母さん、今日は晴れているよ。朝の散歩が気持ちいいだろうね。」そして、この頃になって聞いておきたかったことを思い出すことが多い。

 

もう2年

まだ2年


考えてみたら、みんみが結婚してこっちゃんが生まれて、この2年の間に二人の家族がいなくなり、二人の家族が与えられたんだなあ。


時が過ぎて世界が変わっても

変わらない愛する人たちのいる帰るところがあるよ。


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この頃のこと [家族の事]

みー家族がコロナに感染した。


お婿さんが会社の帰りに一緒に食事をした上司の方が陽性だったことが後で分かった。

分かった時には38度の熱が出ていて、病院で陽性とわかった。

みーと2ヶ月の孫は、「みなし陽性」ということであったが、三日後にみーがやはり38度の熱を出した。陽性であった。こんなふうに感染は起こるのだということを、目の当たりに見た。自宅隔離ということで、三人の家族は自宅でこもっての生活になった。

隔離中に3ヶ月を迎えた孫も共に・・・。

とにかく子どもに感染せずに済むようにひたすら祈った。

友人のお孫さんが7ヶ月で、家族で感染してからやはり感染して40度の熱を出したという話も聞いた。

みーのところは一緒に狭いアパートに住んでいるのだし、母乳だし・・・。

一週間が過ぎ、二週間も過ぎた。

こっちゃん(孫)は毎日元気に過ごしたらしい。

ラインの写真と動画が送られてくる。

まだ3ヶ月ということも良い方に働いたかもしれない。自分で移動することもないし、自分から何かを触ることもないし、母乳をやるときも抱く時も十分に消毒して気を付ける毎日。外に出ることが出来ないので、食料はドアの外に届ける。しばらくは顔を合わせて会うこともない日々だった。


ようやく隔離が解けるということで会いに行った。

二週間の間家にこもり、静かな環境も変わらず両親の顔しか見ないで過ごしたこっちゃんは、まだ3ヶ月なのに、私の顔を見てしばらく無表情でじっと私を見つめてから、おもむろに顔いっぱいで泣いた。やれやれ。

明日は久しぶりに外に出て、我が家にやってくるらしい。

泣くやろうなあ。

まあ、泣いてもいいか。

会えることに心から感謝。


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今、いろんな状況にある方々のことを思うと胸が痛い。

愛する存在と会えないままの方や、痛みの中にある方、先の見えない状況でただただ祈りの中にある方々、紛争や争いの中にある家族、その小さな子どもたち、どちらの国の人々も、やはり痛みの中にあるだろう。願う祈りも思う通りにはならない現状や、思いがけない喪失と取り戻せない時間に苦しむ方々。


レントの時を過ごし、受難週にみことばと黙想と静かな痛みと思い巡らしの中を通り、私たちはイースターの朝を迎えた。


行き着くところはどこにあるのか。

この暗い困難な世界を、どう見るのか。

変えることができるのか。


それでも私たちは心から上を見上げる。

最善を知っておられる方に目を向ける。

痛みと喪失と暗闇と沈黙を経て、輝く朝に蘇られた方に。

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みかん7個 [家族の事]

ただいまみかん7個分
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最年長と最年少の家族 [家族の事]

 昨年12月に、義父が95歳の誕生日を迎えた。

夏から少し体調を悪くして、足腰の痛みが耐え難く、かかりつけの病院への行き来も夫が車で送り迎えしていた。身体の弱い人なので、今までも様々な痛みや不具合と生きて来た。義母が看護師のように仕えて支えて来たのだ。

それでも、義父は守られて誕生日を迎えた。

今年お正月に、家族みんなで集まって、義父にとっては一番年下の孫の成人式を祝い、誕生日を迎えた父に祝福の時を持った。感謝である。


 そして、年が明けて13日に、みんみに!女の子の!赤ちゃんが!生まれた!

ほぼ三日にわたる陣痛との戦いの後、明け方早くに自然分娩で生まれた。

私が、三人とも帝王切開だったので、本当に嬉しい。


 ということで、95歳と89歳の義父母は無事ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんになり、私と夫はおじいちゃんとおばあちゃんになり、いっちとたかはおばちゃんとおじちゃんになりました。


 ついこの間成人式を迎えた家族最年少だった姪っ子は、わずか数日でその座を、生まれたばかりの小さな存在に明け渡し、我が家は最年長95歳と最年少0歳の家族となったのであった。


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お祝い月 [家族の事]

新しい年が始まった。


 イヴの朝に夜行バスで東京から帰って来たたかは、新しい年を家族と共に過ごして、95歳になる祖父のお茶会に参加して、また夜行バスで帰って行った。

しばらく規則正しく、かつたっぷり毎回の食事を家族とともに食べて、しっかり寝て暖かく過ごしてから、東京の寒い寒い一人暮らしの小さな部屋に帰って行った。この1月から新しい仕事を二つ始める予定で、いろんな意味で祈りは続く。

 昨年春から新しい職場に行き始めたいっちも、落ち着いて仕事を進めているようで、なかなか様子は掴めないところもあるが、しっかり者のいっちらしく、淡々と通勤している。

 そして、来週出産を予定しているみんみ。初産ということもあり、まだ少し先に伸びそうな気配ではあるが、準備しておかなくてはならないことは多い・・・はずなのに、夫婦揃ってのんびりしているんだなあ。女の子ということがわかり、夫婦で名前を考えている。生まれたらしばらくはうちにくるらしいので、いっちは姪っ子ちゃんのための小さなふわふわのおくるみベッドを買った。

なんだか現実味がない。

現実味はないけれど、確実におばあちゃんとおじいちゃんになるらしい。


そういうわけで1月は、孫の誕生を迎えるのだ。この1月は、亡くなった父も、私も、二番目の妹も、四番目の妹も誕生日を迎える。お祝い月になるなあ。

おめでとう、みんな。


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アドベント一週目 [家族の事]

明日は第一アドベント礼拝。

クリスマスの季節に入った。

準備は大変だったけど、これからの方がさらにもう何が何だかわからないほど大変だ。一体、何がどこまで進んでいるのか、何が抜けているのか、何を今しなくてはならないのか。もう全てがわやわやである。

毎日どこか抜けているところやしなくてはならないことが出てくる。

追いかけられているというよりも、網目から砂がこぼれ落ちるのをひたすら抑えようとしているというか掬っているというか。

無理やん。


そういう毎日だけど、先日は久しぶりに隣町に住む妹とコーヒーを飲みに行った。コーヒー?違う。珈琲である。モンブランを食べて珈琲を飲み、とうとう4杯も飲んで朝の10時頃から4時近くまで居座った。その間途切れることなく話し続けたけど、何話したのかなあ。とにかくいろんな話をした。今の事、過去のこと、家族のこと、友人?のこと、仕事のこと、自分自身のこと。幼い時からこんなふうに話したことはない。すぐ下の妹とは本の話など、途切れることなく話し続けていた記憶はあるけれど、この妹とはこんなふうに話したことはこの年になるまで全くと言っていいほどなかった。そう、父と母が亡くなるまでは。

父母が残してくれた形のない遺産は、私たち姉妹に豊かに優しく愛に富んだ交わりを与えてくれた。共通の記憶を愛おしく思う。また、それぞれに与えられたそれぞれの記憶を共有しながら、改めて感謝し互いに喜ぶ。

こんなふうになるなんて想像もしなかった。

 

先日少し辛い出来事があって、一人で苦しんでいた時に、その妹に電話して父母の思い出話をした。今の悩みのことは何一つ話せなかったけど、父の苦しかったであろう時のこと、母の辛かったであろう時のことを思い出して話しながら二人で電話口で涙を流した。不思議なことに、それで、私の今の苦しみがほぐれていった。


いいんだ。辛いことがあっても・・・

苦しいことがあっても・・・。

いいんだなあ。


主がおられる。

それが全て。

そうして生きて逝った二人のことを思うと、幸せでならない。

主がおられるということが。

その愛の中で全てが最善ということが。

はっきりと疑う余地のない事実として、生涯に現されているから。


憐れみのゆえに・・・。


ハイビスカスは元気です。

次々に花を咲かせています。

居間の窓辺で。


2017年クリスマス玄関.JPG

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祖父のこと [家族の事]

 今から34年前の4月19日、イースターの日に召された祖父のことを思い出している。


奈良に生まれ、六人弟妹の長男として育った祖父は、幼い時に父親が寺子屋の先生として遣わされた北海道に家族ともども移住した。


 祖父の父親という人は、高野山の僧だった叔父の養子として僧侶になるべく叔父の元に行ったが、自分の長兄が亡くなったと言うことで後を継ぐために本家に戻ったそうだ。

祖父に聞く父親像は、とにかくお酒とタバコの好きな人で、酔うと家族を苦しめたそうだ。母親は、本家の嫁として苦労していたらしいが、更に極寒の北国に連れてこられて、厳しい環境の中で子どもを育て、祖父が16歳の時に39歳の若さで病いの中で亡くなったそうだ。食事の時も、家族の後で残ったご飯を立膝をしてかっ込んでいて、座って食事をしているところを見たことがないと言うくらい、働き詰めに働いて生涯をとじたのだそうだ。

 祖父は1900年生まれで、生きていたら今年121歳。三井物産に勤めて、コツコツと実績を上げ、北海道中を転勤や出張で周りながら、最後は小さな町の三井物産の木工所の工場長となった。しかし、その工場は、アジアで初めて木材生産のオートメーション機械を導入したと言う立派な工場だったらしい。戦後、昭和天皇の行幸を得て、小さな北国の町の小さな駅に、白いスーツに白い帽子を手にした祖父が、昭和天皇をお迎えしている写真を見たことがある。


 その祖父は、私の母が生まれた頃に、さんざん家族を悩まし苦しめた自分の父親を引き取った。その時祖父の兄弟たちは、祖父が父親を引き取ると言うことを信じられない、あり得ないことだと言っていたそうだ。実際は、出張ばかりの祖父の留守の間、祖母が子どもを抱えながら面倒を見ていたのだから、苦労したのは祖母だったろう。北海道の渚滑(しょこつ)出身の祖母は美しい人で、ミス渚滑と言われていたらしいが、若い時に聖書を読んで信仰を持った救世軍のクリスチャンであった。


 私が母から聞いた曽祖父の姿は、隠居部屋でお酒を飲み、気に入らないことがあると祖母の髪を持って引きまわしてデリッキ(火バサミ)で打つと言う、本当に恐ろしい人だ。それでも一面とても器用な人で、お酒が入っていない時は、細々とした物を手作りしたり、上手に歌を歌ったりしていたそうだ。

 その曽祖父が、歳を経て病を得て体が弱り祖母の介護によって生活していたが、祖母がその肩をさすりながら自分自身の愛の足りなさを嘆いて涙を流していたときに、首筋に落ちた涙を感じて曽祖父は祖母の心を知ったのだろう。「あんたの信じている神様は本物や。」と言って悔い改めて信仰を求め、やがて洗礼を受けて人が変わってしまい、優しいおじいさんになって、毎朝祖母と祈りの時をもち、亡くなった時にはその小さな町で初めてのキリスト教のお葬儀がもたれたそうだ。


 祖父は、苦労して苦労して大変な中で亡くなった自分の母と、散々放蕩をして家族を苦しめても、人生の終わりに信仰を持って幸いな最後を迎えた父親の姿を比べて、なんとも言えない思いをもっただろうと思う。


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 それでも82歳で真の神様を信じて洗礼を受けた祖父の信仰生活は、私にとって何よりの慰めであり喜びであり幸いであった。最後に会った時に祖父は、私を送り出す朝に涙を流して私の名を呼んで祝福を祈ってくれた。

イースターの日、大きな手術の後の回復期であったのにも関わらず、思いがけない大出血があり、あっという間に天に召されていった祖父の死は、88歳という歳ではあったがまだまだ元気でいると思っていた私たち家族にとっては本当に大きな悲しみであり驚きであった。

 手元に、晩年の祖父の直筆の文章がある。何枚も書き直した後がある。忠実で誠実に生きて、晩年は優しく涙もろくなった祖父の信仰告白とも言える文章を改めて読んで胸を熱くしている。


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明日が一年目 [家族の事]

ことあるごとに家族で賛美した。

もうそらで覚えているのでいつでもすぐに歌える。

集まったら、旅から帰ったら、退院して帰宅したら、お祝いの時、区切りの時、病の中で、感謝の時に、いつでもどこでも家族で賛美した。

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「今日まで守られ」

曲:Asahel Nettleton 詩:Tetusaburou sasao

1、今日まで守られ來し我が身 つゆだに憂えじ行く末などは

  いかなる折にも愛なる神は 全ての事をば良きにしたまわん

2、か弱き者をも顧みたもう 我が主の恵みはこの身に足れり

  賑おう里にも寂しき野にも 主の手に縋りて喜び進まん

3、主の日ぞいよいよ間近に迫る 浮世の旅路もしばしの間のみ

  間もなく栄えの御国に行きて ときわに絶えせず我が主と住わん


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去年のお正月、父は入院していたけれど、仮退院の母が帰ってきたのでこの賛美を家族で歌った。

いや、母が歌うのをみんなで聞いた。

私が聞いた最後の母の賛美だった。

涙も見せず動揺もせず、最後までほぼ一人で嬉しそうに歌った。


今私のスマホのボイスレコーダーに残る母の賛美は、素直で愛らしく真っ直ぐな母らしい声で、もう息も苦しかったであろうに母は歌い切った。


♪間もなく栄えの御国に行きて ときわに絶えせず我が主と住わん♪


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5月15日
明日は父が天に帰っていって一年を迎える。


 

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春が過ぎていく [家族の事]

 緊急事態宣言が延長になり、様々な集まりが中止になった。

会議はリモート、ZOOMになり出かけなくても家で出席するようになった。

外に出るのは、マスクをして買い物に行くくらい・・・。時折夫と公園や街の中を散歩するくらい・・・。



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 雨が降ったり風が吹いたり晴れたりして季節が移っていく。

気が付かない、知らない間に咲いている花々が変わっていく。桜も終わり、タンポポは咲いている。ハナミズキも終わり木々の新緑が眩しい。


こんな季節に父も母も生涯を終えたんだなあ・・・と思う。


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 緊急事態宣言のために姉妹で会う事は出来なくなってしまったので、先日LINEビデオ通話を試してみた。私はなんとなくもどかしさを覚えつつ終わったのだが、それでも全く会えないより、顔を見ながら声を聞くことができるのは、すごいよねーーー。
 短い時間とはいえ、せっかく四人が揃ったのに、父と母のことは、なぜかちゃんと話すことができなかった。
ただメイクしていない私の顔が母方の祖母の顔にそっくりだと言ってみんなが笑った。
大好きだった祖母。いつもいつも大笑いのタネをくれた祖母。
5年介護をして祖母を看取った母は、祖母を送った後で軽い鬱症状になった。
私に電話してきては良く泣いた。電話口で何をいうでもなく泣いていた。でも、泣けて良かったね・・・今はそう思う。
電話口で泣かれるのは本当に辛かったけれど、泣くのを聞いてあげられて良かった・・今はそう思う。
悲しみや寂しさがやがて形を変えるのはいつなのか、誰にもわからないし、それぞれ違うだろうから何も言えない。切り替えられる人もいるだろうし、いつまでもその中に止まる人もいるのかもしれない。
それでも、悲しみを悲しみとして、寂しさを寂しさとして心の中で認めながら時を過ごすことにきっと意味があるのだろう。
そんなことを思いながら、変わりゆく季節を空や花や木々と共に過ごしている。

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懐かしい姿 [家族の事]

13年前のこと。


その春、山形県から関西に越してきた両親であった。

遠方からのお客さんを連れて、母は関東の妹とともに有馬に出かけた。

とても綺麗な紅葉を見て「お父さんにも見せてあげたかったね。」と言いながら帰ってきたそうだ。父もまた、山が好き自然が大好きなので見たいと思ったらしい。


そこで、改めて数日後にロープウェイで登れる神戸の植物園に父と母を案内して行った。ちょうど紅葉は盛りで、しかも薔薇の花や様々な花々も盛りと咲いていた。母はおいしいおにぎりとお弁当を作って電車に乗って三人で出かけ本当に楽しく嬉しい時を持った。


父はブログを始めていたので、デジカメでたくさんの写真を撮っていた。

布引ハーブ園2008年11月紅葉を撮る父.jpg

その横で母は、父と同じ方向を見ながら楽しくおしゃべりをしていた。

布引ハーブ園2008年11月.jpg

その姿を見ながら私もとても楽しく幸せな気持ちだった。その時のことを思い出している。

布引ハーブ園2008年11月父と母.jpg

この時着ている母のライトグリーンのジャンパーは、今私の手元にあって、この春の季節とても役に立っている。


5月になり、父と母が天に召された日を迎えようとしている。あの日々の前後のことを思い出しながら、改めて神様がどれほどに小さな存在を愛していてくださっているのかを教えられている。

何が幸いなのか・・・私にはわからない。それでも、真実な方は最高の幸いを与えてくださる方なのだ。

懐かしい両親の姿を思い出しながら、静かな5月を迎えた。

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勿忘草の贈り物 [家族の事]

毎年いっちは私の誕生日に花の苗をプレゼントしてくれる。

いつからだったろう。

まだ東京で仕事をしている時からか。

宅配のお兄さんが持ってきてくれる荷物。

箱が届いて開けてみると、花の苗がいっぱい入っている。

また蕾もついていない小さな苗。

そりゃそうだ、一月だもん。

「勿忘草が大好き」と言ったことを覚えていてくれた。

勿忘草は一年草だから、毎年毎年送ってくれる。

どんなに嬉しく慰められているかわからない。

去年はなぜか私の名前にちなんだマーガレットを送ってくれた。

そして、今年はまた勿忘草。



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子どもの頃の思い出の花。

故郷の田んぼや小川のそばに咲いていた花。

蒼い蒼い小さな花が群れになって咲いていた春。


遠い思い出だ。



今年の誕生日は、父と母を天に送って初めての誕生日。

いろんなことを思い出して、まだ痛みは消えない。

小さな苗は鉢に植え替えられて春を待つ。

まだまだ寒い日もあるし、春までは遠いから、蕾がついてやがて開いて、あの綺麗な小さい蒼い花々が咲くのはずっと先のことだけれど、いつか必ず来るその日を待つことは、私にとって大きな慰めになった。

いっちありがとう。

去年のマーガレットも、今年ちゃんとまた蕾をつけているよ。

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