見えすぎるって怖いって。 [その他いろいろ]
昨日 両眼の白内障の日帰り手術を受けた。
私には持病があり、通っている病院の先生から年に一度は眼科に行くように紹介状も頂いていて、近くの眼科に5年ほど通っているが、そこではいつも副院長先生が診てくださっていた。毎年初夏に行って特に問題もなく過ごしていた。
今年、いつものように年に一度の診察に行ったら診てくださったのは院長先生だった。
そして「僕だったら2年前には手術を勧めていたなあ。だいぶ進んでいるね。」と言われ、画像を見せてくれた。そこには本当に見事に白く濁った私の両眼の映像があった。
確かに、ものがはっきりと見えなくなっていて、光が差すと目の前が真っ白になってしまう。そんな状況がずっと続いていたので、いつの間にか見えないことに慣れてしまっていた。
見えないことに慣れるんだね人って。
知人には症状が進んでいて手遅れになって、手術をしても見えないままの人もいる。
怖がりの私にとっては、目の手術と考えただけでとても耐えられない恐れがあったけれど、このまま見えなくなってしまうことも怖い。そして、今している様々な働きも見えないことで支障が起きてきていることも事実。ということで決心した。
お金もかかるし、怖いし、気が進まないけれど・・・。
術中ずっと看護師さんが、ぎゅっとハンカチを握りしめている私の手を、暖かい手で包んでくれていた。ありがたかった。すごく心強かった。私は、ずっと頭の中で大好きな北海道の景色と孫の顔を思い浮かべていた。
夫はこの日から三日間、以前からの予定が入っており東京と仙台に出かけていて、私は病院の予定に合わせた手術日に決めたために付き添いの家族がおらず、日帰り手術なので一人で行って一人で帰ってくるつもりだった。家から歩いて3分。なんとかなるやろと思っていた。
なんとかなったかもしれない。でも、隣町の妹が忙しい中で来てくれて、手術が終わって出て来た私を待合室で待っていてくれた。その姿を見て心からほっとした。やっぱり緊張してたんやな。
歩いて家まで3分。
妹は、手を取って腕を支えて、道の段差に気をつけて一緒に歩いてくれた。
自分を大切にすることの下手くそな私は、ただただ申し訳なくってなんて言って良いのかもわからなかった。すぐに休むようにと言って妹はお土産とお見舞いを渡して帰って行った。
一人でいるのが気楽で大好きな私が、もう少し一緒にいたいと、初めて思った。
それが昨日の出来事。
1日4回忘れずに三種類の目薬をさすこと。2回の抗生物質を飲むこと。4日間は保護メガネを寝るときもつけ続けること、4日目までは毎日、その後一週間ごと、一ヶ月ごとに診察を受ける事。しなくてはならないことと、してはならないことが沢山あり、こりゃ確かに少し前は入院する事態なんだなあと思った。
そして、前から「見えるようになったために動きすぎて体を悪くしてしまう人」のことは聞いて知っていたし、亡くなった祖母は白内障の両眼を手術してその後脳梗塞を起こしてしまい、その後亡くなるまで認知障害をもったままだった。私は狭心症の持病もあるし、妹たちは心配してくれた。申し訳ない・・・。
今回自分が経験してそれがよくわかった。
見えすぎるので、それまでわからなかった家の中の汚れているところ、掃除するべきところ、なおすべきところが見えすぎるのだ。見えすぎるって怖い。
そう
多分人と人との関係もそうかもしれない。
見なくても良いところまで見えすぎてしまう。
見えても気にしなくていいのに、見えすぎてしまって気になって気になって、その「見えすぎて気になる思い」がやがて心の中で悪いものに変わってしまう。
批判や嫌悪や裁きや、排除や無視や怒り 直してやろうとするお節介 余計な矯正
ああ、そうなんだなあ
見えすぎるって怖いなあ。
私はとりあえずトイレとガス台を掃除した。
しなくてもいいのに。
いや、しちゃダメだろ。
術後4日間は、いや少なくとも次の日は安静にしてなくちゃ。
こういうところが私の課題だなあ・・・・。
と反省している今です。
突然の胃の痛み [その他いろいろ]
3月に入りました。
「2月は逃げる。3月は去る。」というけれど、本当にあっという間に2023年も3月を迎えた。いったい私は何をして過ごしたのかなあ。
記憶が全く曖昧である。・・・まあ大体いつもだけれど。(いいのか?)
2月の最後の日曜日に総会を終えて、ほっと一息。
夫と互いに「お疲れ様でした。」と思う。
ところが!その日の夜から急に激しい胃痛が!
激痛とはこのことか!
この痛み!覚えがあるような。
大好きだった蕗の薹が突然食べられなくなった時だ。
蕗の薹の天ぷらが出て一口食べた後に、激しい胃痛と気持ち悪さとで非常に苦しんだ。
その時は、突然で何が起こったのかわからなかったけれど、後で調べたらアレルギーを起こしていたらしい。いやアレルギーを起こしたのだった。えーーー?大好きでよく食べていたのに!ある日突然それは起こったのだった。そして、もうあの春らしい苦味のある美味しい蕗の薹を食べることはできなくなってしまった・・・しくしく。
今回は思い当たることが全くない。
全くないけれど、同じ痛みと苦しみ。もうお腹が破裂するかのような痛み。
何かに当たった?
それとも・・・
・・・・食べ過ぎ?
いやいや・・・・
・・・・やっぱ食べ過ぎ?
う〜〜〜〜ん。
確かに、総会を日時に終えて、気が緩んでちょっと食べ過ぎたけど・・・。
結局その夜からの胃痛は治ることなく、月曜も一日何も口にできず、痛みも治まることなくただただ死んだように寝ていた。痛みと闘いながら・・・。
火曜はようやく起き上がったけれど、胃の不調は今日も続いている。
夫が用意してくれたお粥を食べ食べ過ごした。
下したり戻したりはなかったし、ただただ胃?お腹が激しく痛かったのだった。
はあ・・・なんだったのかなあ。
火曜から関西はとても暖かくなって、昨日は少し外を歩いた。
いつも自転車でたーって走る道を、てくてくよろよろ歩いた。
相変わらず空を見上げて歩いたり、木を見たり、花を見たり。
暖かくて春の花が咲き始めていることに気がついた。
鳥たちが囀っている。空を見上げると鳥だらけだ。
ヒヨドリや雀や鳩や、カラスももちろん。
この辺はそのほかいろんな種類の野鳥が飛んでくる。
姿が見えないのに、高いところで聞いたことのない声が聞こえる。
遠くまで響くその囀りを聴いていると胸が震える。
名前を知りたいと思うけれど、知らなくてもいいとも思う。
ただ聴いていると不思議な切ない気持ちになる。
今日は夕方から天気が崩れるらしい。
それもいいか。暖かいから。
えっ!? [その他いろいろ]
昨年からだったか。
いつからだったかはっきり覚えてはいないのだけれど、左の股関節が朝起きた時からコツッコツッと変な音がするようになった。すぐに聞こえなくなるのだが、変な違和感が残った。
買い物の後、癖でいつも右肩に重い荷物を背負ってしまうのだが、その後どうにも左の腰や股関節周りや太ももが痛んで、普通に歩くのにも難儀するようになっていた。
6月初めに雨が降り続いて、それでも買い物には行かなくてはならず、かなり重い買い物袋を例によって右肩に背負って家まで1キロ半ほど歩いて帰った。その後、しばらく股関節の激痛に苦しんだ。足を引かなくては歩けないほどになり、夜寝ている間も痛みで目が覚めるほどだった。あまりに痛み続けるので、病院嫌いの私も流石に整形外科に行くことを決心。駅の近くの病院へ行った。レントゲンを撮ってもらって見たところ、確かに年相応に軟骨が減っているのは分かったのだけれど、その痛みの原因はわからない。お医者さんはすぐに近くの大きな病院のMRIを予約してくれた。骨の中が壊死しているのかもしれないとのことだった。怖いっ!
次の日MRIを撮ってその結果が最初にいった病院に報告されたらしく、次の週の初めに来るようにとのことだった。
結果は異常なし・・・・。
お医者さんはしばらく唸った後「まあ良かったですね。」と言った。そうね。壊死してはいなかったね。異常なしだったね。この激しい痛みの他は・・・。ということで三種類の痛み止めの薬が出たのだった。それで終わり…。
けれども痛みは続き、とうとう階段が一歩ずつしか登れなくなり、歩く時も左足を引きずらなくては歩けなくなってきた。夜寝ている間の左股関節と太ももと腰の痛みは耐え難いほどだった。
そして私は決心したのだっ!
あそこに行くしかない。
いやもっと早くに行けばよかったんだ、多分、いやきっと。
なんとかなるかもしれない・・かもしれない・・・。
ということで行ってきました。
T鍼灸治療院!!奇跡の手を持つT先生のところに!
先生は例のごとく廊下の向こうで、待合の椅子から立ち上がって歩く私をじっとみていた。
足を引きずりひょこひょこと傾き「痛い・・・」と小さく言いながら歩く私を。
このシュチュエーション覚えがある。
もう4年ほど前自転車で転んで歩けなくなり、今回とは違う整形外科でレントゲンを撮って骨に異常がないということで湿布薬を出された後すぐに、T先生のところに行った時も、先生は同じように、娘に助けられながら待合の椅子からよろよろと立ち上がって診察室に向かう私を、廊下の向こうでみていた。
そして言った。「右足首の捻挫と左太ももの肉離れと、後はぎっくり腰ですね。」
その時も数回の治療ですっかり直ったのだった。
今回は、まず鏡の前で肩幅に足を開いて立ち、右手を平行にあげて先生が上から押す。
大丈夫。
次に左手も同じようにする。
痛いっ!痛くて耐えられない。
次に右の足に重心を置く。
大丈夫。
左足に重心をおこうとするのだが痛くて左側には傾くこともできない。
診察台の上で、先生は私の左の足を曲げて、左へふらふらふら…と2回揺らした。
その間10秒ほど。
それから「もう一度鏡の前に立ってみてください」と言われて診察台から降りて、廊下の鏡の前へ・・・あれっ!私、いま普通に歩いてる!!?痛くない!?えっ?
同じように右と左に腕を伸ばし、先生が上から押す。
えっ!痛くない。
右と左にしの重心を置く。
えっ!!
出来る!
痛くない!!
どういうこと!!??
もう笑いが止まらない。
たった10秒!どういうこと!?
もう一度診察台に戻り、鍼とお灸をしてもらう。
その後先生は右の足首のマッサージ?を丹念にしてくださった。
ん?右の足首?
痛いのは左の股関節なんですけど?
その足首は今から50年以上前に肉離れを起こし、町の小さななんでも屋外科病院?で電気治療をしてもらって全く治らなかった過去があり、腫れていてうまく曲がらないままこの歳になった因縁の足首である。
とにかく、治療が終わり帰りはスタスタと歩いて帰ったのだが、その後3回の施術をしていただき、ほとんどすっかり痛みが引いて、寝ている時の痛みについては全く!嘘のようになくなった。階段も登れるし普通に歩ける。そして、先生から右を庇って左に重心が入っているので、股関節の神経と筋に傷みがあるようだとを言われた。歩き方を少し意識的に変えること、重心を片方にだけ載せないようにということを言われて、後一回で治療は終わる。左の股関節の痛みには、右の足首の腫れも関係しているようだった。なんと・・・。
今回最初の治療のとき、たった10秒ほどで痛みも傾きも治った後、先生と一緒に笑いすぎて最後は涙が出てきた。嬉しかったのと、レントゲンとMRIに払った高い治療費を思って・・・。
やれやれです。
早く行けばよかった。
T鍼灸治療院。
でも、よかった・・・。
暑い毎日 [その他いろいろ]
時間が過ぎていくのは早い。
毎日があっという間に過ぎて行くなあ。
このところずっと昔のブログを見返していた。随分忙しく過ごしているのに、毎日のようにブログを書いているのを見て、忙しい方がきちんとしているなあと思った。
その頃と今とでは「忙しい」の質が変わったのかもしれないな、と思う。
梅雨の時期を過ぎて、いきなり夏真っ盛りに入ったような気温が続いている。北海道で育ったけれど、生まれは岡山県の当時の真庭郡。生まれた時に暑い気候に対処できるように汗腺やその他が整ったのかな、と考える。
父は山形県、母は北海道。どう考えても北国仕様のはずだけど。
岡山県、北海道、茨城県、山形県 そしてまた茨城県、横浜に一年、そしてそれからずっと兵庫県。あちこちで過ごしたけれど、やはり幼年期から過ごした北海道が一番懐かしく慕わしい。夏でも寒くて長袖を着て、夏の初めはストーブをつける日があったりする、そんな気候が好きだ。冬のキンと硬い寒さも、少しずつ解れて行く行ったり来たりの春も、いきなり全ての花が咲き始める初夏も、本当に好きだ。
と言うわけで、北の国を思いながら、今日も何もしなくても流れる汗を拭いながら1日を始める。しなくてはならないことが1日にぎゅっと詰まっているけれど、以前に比べると本当に自由だなあと思う。
忙しかったあの頃は、いつも何かを心配して胸が痛かった。そんな毎日が続くと、だんだん感覚も麻痺してきて、とにかく前の事をする、次に待っている事をする、その繰り返しの毎日になっていたと改めて思う。
今は?
歳をとってできなくなることも多いし、しなくても良いことはあえてしない選択もできるようになったけれど、心配性の気質はあまり変わっていないかも。
とにかく私のスタンダードはWWJD
そのような人生を送りたい、失敗だらけでも、うまくいかないことがあっても、心はいつもそこにありたい。そう願う。
生きて行く道はまっすぐではないけれど、そこのところは真っ直ぐ行きたいのだ。
いつも心の戻るところ、いつもそこにあって憩うところ、いつも目を覚まさせてくれるところ、いつも慰めを与えられるところ、いつも初めの思いを取り戻すところ、いつも私が誰かを教えてくれるところ、いつも・・・・。
2009/9/9の記事 [その他いろいろ]
何にでも、すぐに反応して答えを出してしまう社会。
ボタンを押したら、それだけで結果が出てくる。しかも迅速に。
入力したら、欲しいものが得られる、すぐに。
一つの言葉だけで、たちまち結論を出してしまう人間関係。
うわべの現象で判断して、切り替えスイッチのように変わる生き方。
強くて賢くて、早くて大きくて高いことを良しとする世界。
実は、浅くて冷たくて軽くて危うい生き方が社会を覆っている。
「思い巡らすこと」が、まるで鈍く野暮で、今の世界の生き方に適応できていないように思われる。
でも、もしかしたら、起こっている事柄は、全く反対の意味を持っているのかもしれないと、思い巡らすことができなかったら、なんて私たちの生き方は人を傷つけ、信頼を壊し、愛を冷えさせるだろう。
人はその言葉の中に本心が隠れているのだろうと思う。
それは、現れた通りの言葉ではない。
むしろ、その言葉には全く現れていない裏側に、本当に言いたいことが隠されていることがある。
怒りの後ろにある寂しさや不安、無関心の裏に隠れている憤りや迷い。
人の内側にあるものは本当に弱くて悲しい。
でも、だからこそ神様の愛と力が必要で、その弱さの中にこそ現されるはず。
恐れないで、時を留めて思い巡らすことをしたい。
滞ることや障害にぶつかることや反対に遭うことやうまくいかない時には…「セラ」…
数えよ、ひとつひとつ。与えられている恵みを。
考えよ、とくと。愛されている事実を。
信じよ、全く。下には永遠の御腕があることを。
こんなことを2009年9月に考えたんだね。
昔のブログを読んでいて自分に教えられたよ。
初秋のハイビスカス [その他いろいろ]
10月を迎えて、ベランダのハイビスカスの蕾が花を咲かせないうちに黄色く枯れて、葉の数も落ちてきたので、思い切って来年のために枝切りをした。
やがて冬を迎えると、全ての葉が落ちて枯れた木のようになってしまう。
去年はもうダメかと思って悲しかった。
両親が、特に父が寝たきりになってからは、母がハイビスカスに蕾がついて真っ赤な花を咲かせるのを一つひとつ数えながら喜び楽しみにしていたから、心から申し訳なく悲しかった。でも、枯れてなかったんだなあ。枝を切り、肥料をやって春には葉が出てきて夏中次から次に真っ赤な花を咲かせてくれた。
かつて私は、本当に植木や草花を枯らしてしまう天才で、水をやり過ぎては枯らし、加減しているつもりで足らずに枯らし、陽の当たる所に置いては枯らし、日陰においては枯らしていた。(なんじゃそれ)触るとカラス・・・じゃなくて枯らす天才だった。(自分で言ってどうする…)
でも、賢い妹にアドバイスをもらい、それなりに調べてなんとか持たせている鉢がいくつか…。このまま育っていったらいつか大きな木になって、ベランダでは育てられなくなって、しかもどこにも持っていくことが出来なくなって(大きく重くなり過ぎて)アパートのオーナーと他の部屋の住人から苦情が出たらどうしよう、ベランダの底が抜けたらどうしようなどと想像は果てしなく広がっていく。カラス天才…じゃなくて枯らす天才の才能はどこにいったのだろう。想像の中で枯らす天才の才能を求めている。もういっそ枯れてしまってもいいかも。もう朝から心を痛めながら蕾や葉を数えては「水が欲しいのかい?」「やり過ぎて根が枯れそうなのかい?」「暑いのかい?」(…「かい?」と言う言い方は北海道弁で、北海道を離れてまもなく50年を迎えるのにこればかりは全く治らない…なぜだ)と心配し続けるのは辛すぎる。いや…でも、葉っぱが黄色くなり、落ちていってとうとう枯れてしまうのはまたそれも辛い。
何をやっても辛いです。
今から暗い気持ちになる。 [その他いろいろ]
今週の月曜日、月一回の持病の診察のためにかかりつけの病院に行った。
いつものように検尿と採血と診察を受けた。
全ての数値はとても良く、医師からはよくコントロールされていると褒め?られた。その後、コロナのワクチンを受けてはどうかと言われた。さまざまなデータと説明を受け、確かに接種券は届いているが、ただでも注射なんて大嫌いだし、実はすごい怖がりなので受けるつもりはなかったのだが、気がついたら予約していた。
そうなのだ。私は注射が大嫌いで、すごい怖がりで、嫌なことは絶対避けて通りたいのだが、めっちゃ素直なのだ(自分で言うか・・・。)
「どうですか?受けますか?」
「はい」
はっと気がついた時はもう遅い。
「帰りに予約していってくださいね。」
心の中で(なぜ「はい」といったのだっ!)と己を責める。
しかも、1回目の予約はその週の(つまり今週の)金曜日、診察からわずか四日後である。まじか。心の準備もできない。注射のための心の準備には1ヶ月ほどかかる。毎月の診察で採血をしてるが、1ヶ月の準備があっての採血なのだ。
しくしくしく・・・。
行ってきました。昨日。
大人しく受けてきました。
娘に教えられた通り、静かに深呼吸して備えようと思った途端に刺されていました。刺されました。準備も何もあったもんじゃなかったです。いや確かに「刺しますよ」って言ったかもしれない。でも聞いちゃいなかった。もう必死で・・・。
しくしくしく・・・。
あとは何も考えられずに、15分間様子を見られ、痛み止めと熱さましのお薬をいただきすごすごと帰ってきた。
帰ってからご褒美に泣きながらあんぱんを食べた(だめじゃん)
血糖値が上がったせいか眠くなって少し横になった。
そのほかの症状は何もなし。
でも、今日は朝から腕が筋肉痛のように痛むが、それほどひどくはない。いや、痛いけれども・・・。発熱もなく、だるさもほぼなく1日を過ごしている。
注射の後の絆創膏は見るのも嫌なのでそのままにしていたが、今朝夫に剥ぎ取られた。心の準備もなく・・・。
2回目は30日の金曜日。たったの三週間後。
今から暗い気持ちになる。
しくしくしく・・・。
生きている音 [その他いろいろ]
暑いので窓を開けて寝ている。
今の寝室はかつてみんみの部屋であった。
改めて夜の間中、いや一日を通してどれだけ騒音に満ちているかを知った。
最終電車が一時近くに通る路線はアパートのすぐそばを走っている。一日中電車の音は鳴り響く。さらに今週からは夜中に線路の工事が始まるらしい。
幹線道路がすぐ目の前を通っている。これが・・・・夜中になってもバイクは走る、トラックかと思うような重量の車がエンジンの大きな音を立てて走っていく。
夜中過ぎに大きな声で話しながら笑いながら歩いている人たちがいる。ほぼ毎日のように。
そして、隣の大家さんのところのビーグル犬が、毎朝五時過ぎに、何が悲しいのか知らないが明らかに鳴き声ではない泣き声で泣き続ける。夕方にも必ず鳴くのだが、あれはなんなのか。
可愛がられてはいない。まあまあ広い庭に放し飼いだ。もうかなりの老犬で、どなたかから譲られたと聞いた。
そして、その庭には雀の大軍が住んでいる。うちのアパートのベランダに数羽来るくらいは可愛いのだが、大群で囀り始めるともう・・・・。
カラスもなく。
毎日毎日電車の音と、車とバイクの音と、人の話し声と、老犬の悲しい泣き声と、おしゃべりな雀の囀りとカラスの鳴き声の中で、なんとか夜を過ごし朝を迎えている。
眠りは浅い・・・。
ダッシュは無理 [その他いろいろ]
先々週の木曜日。今になってマイナンバーカードを申請していたので受け取りに市役所の分室に出かけて行った。
私は免許証を持っていないし、パスポートも切れているので写真付きの証明書を持っていないのだ。特に不便だと思ったことはないけれど、面倒な時がたまにある。
そこで、ネットで申請して何ヶ月か経ってようやく受け取りに行くことになったのだった。
暑い日で、私はいつも自転車で出かけることが多いのだがその日は珍しく歩いて行った。
滞りなく手続きは終わり、めでたくカードを受け取った。その帰り道のことだ。
横断歩道を渡ろうとして後数歩で渡り切ろうとするときに、信号が赤になった。もちろん急に変わったわけではなく、点滅する緑を確認しながらも渡ったのだから途中で信号が変わるのは想定内だ。
とりあえず走ろうと思いダッシュで二歩!走った?時!!突然足首がねじれて転んで膝を突き、両手をついた。そんなスピードが出ていたわけではないのだからそれくらいで済むところなのだが、私の背負ったリュックが重かった。転んだ勢いでリュックは思いきり左に振り切られて、その力で私は両手をついた後に左の顔面からアスファルトに打ち付けられた。
ひゃあ〜〜〜〜。
目の前の自転車に乗った奥さんと、左からやってきていたバイクのお兄さんも、一瞬私と顔を見合わせて一緒に呆気に取られて時間が止まった。そして、二人とも自転車とバイクを止めてかわいそうなおばあさんを(あ、私のことです)助け起こし、大丈夫ですか?と聞いてくれた。お兄さんは何度も「怪我はないですか?大丈夫ですか?」と繰り返し聞いてくれた。
眼鏡の左がわが大きく歪んでいるのと、どうやら目の横をアスファルトで擦ったらしく血が流れているのを感じたが、不思議に痛みはなかった。それより申し訳なさと恥ずかしさで、大丈夫ですと言い、お礼を言うのもそこそこにそそくさとその場を後にしたのだった。
まあ痛みよりも恥ずかしさの方が大きかったのだな。本当に申し訳ない。
幸い傷は小さくて、出血もほとんどなく、そもそも挫いたと思った左足首も、痛みはそれほどなかった。家に帰って、みんなに転んだと言ったら、慰めてもらい「走るな。」と口々に言われた。
次の日は一日身体中が痛かった。
眼鏡は、作ってもらったお店までてくてく歩いて行ったのに閉店終業していて、またてくてくと歩いて帰った。それで、近くの眼鏡屋さんに行き無料で直してもらった。ありがたや。
娘がLINEで「はしるな こけるな 顔面からいくな」という標語をくれたので守っていこうと思う・・・?
何より走れなくなっているということがとても寂しく残念です。
いや走れるけれど、ダッシュは無理だね。うんうん。無理だ。
ところで問題は私のリュックだ。
子どもが生まれてから、ドラえもんのポケット鞄になって久しい。細々した便利グッズがないと不安になる。当然重い。そんな重いリュックだから、勢いで振られて重心を崩されるのは当たり前だ。
思った。
私もいつの間にか「あったら便利」と言いながら不要なものを詰め込んで、生き方がぶれているんじゃないかなと。
大丈夫と思っても、その重さで引き回されて怪我をすることになる。
シンプルに軽やかに生きたいものだ。
あってもいいし無くてもいい。
そんな生き方をしたいなあ。(願望)
と、思った。
病院のはしご [その他いろいろ]
5月に入ってから、明け方や夜半過ぎに何度か狭心症の発作が続いた。
秋と春にやってくるお馴染みの痛みと苦しみ。
以前処方された舌下錠はもう期限が切れていたので、かかりつけの持病の先生にそのことを話したら、ちゃんと診察も受けて診療方法も相談したほうが良いと言っていただいたので、その足で家の近くの心臓・血管・循環器センターに行った。病院と注射が大嫌い(笑)な私にしては素早い行動であった(いやいや当たり前のことなのだろうが・・・)
父も母もかかっていた病院である。
10年以上も前にも詳しい検査をしてもらい、診断はおそらく変わっていないだろうと思った。
私の場合は異形狭心症で攣縮によるものだ。父と同じである。でも父はその後心筋梗塞を起こしているから放っても置けない思いもあった。
今回も治療着に着替えての採血。心電図、エコー、CTと詳しい検査をすることになった。午前中にかかりつけの病院でいつものように採血をしたのだが、今度は反対の腕に太い注射針で三本の容器に血を取り、後でCTの時に造影剤を入れるために点滴に繋がれた。もう重病人気分だ。嫌で嫌で身体中がちくちくしながら、ガラガラと点滴の台を持って移動する。
その日は半日かかって検査を終えて、今週月曜日に結果が出たので診察を受けてきたが、全ての検査の結果は良好。血管も元から端に至るまで綺麗に通っているし異常なしで、エコーの結果も問題なし、血液検査に至っては、どの数値も(持病にかかわる数値以外は)安定していて範囲内であった。最後に先生に「とても健康ですね。」などと言われた。
いやいやいやいや。
どう言うこと?
喜んでいいのやら心配していのやらわからん。
とにかく万が一発作が起きた時のことを考えてミオコールスプレーを処方してもらって帰ってきた。父も常にどこに行くにも常備していた薬なので、懐かしい。
5月は父と母を続けて天に送った月。
季節の変わり目であるし天候も不順で、雨の日が続いたり、暑かったり寒かったり。
心配なこと心にかかっていつも祈りの中に覚えていることごと。
どうしてもやらなくてはならないこと(と書いた途端に、やりたくないんだろうなと思わせてしまうほどやらなくてはならないと思っていること笑笑)
次から次にやってくる目の前の仕事の数々。
多くの人がそのような中を過ごしているのだろうに、私の小さな(これは本当に普通の人より小さいと昔診察の時に言われたのだから間違いない)心臓(血管)はすぐにびびって痙攣してしまうのだろうな。
神様。
長く健康で生きたいとは思いますが、全てはあなたの御手の中のことです。
いつどのようにあなたのところに召されるのかはわかりません。
どうぞそのための備えをなさせてください。
愛する一人ひとりに「充分生きた」と私を手放せるような生き方をさせてください。
残された愛する一人ひとりが、私があなたのところに召された事実を覚えて、感謝して慰めをいただけるような最後を迎えさせてください。
・・・・父と母がそうであったように・・・。
愛する主よ。
心から祈ります。
優しい言葉 [その他いろいろ]
私はかつて人付き合いが本当に悪かった。
人といるととにかく気を使うし、一緒にいて楽しいと思うのも一瞬のことで、何かと気を回しすぎて結局疲れてしまう。
ひとりで過ごすのが何より好きだし、ひとりでいて寂しいと思うことはほとんどない。
好きなことをして、自分の好きなように時間を使う。そういう自分で良いと思っていた。
だから、コミュニケーションの取り方が全く下手なのだ。
う〜〜〜ん。
「コミュニケーション」と言うか会話ですね。
人との会話が好きではない。おしゃべりも疲れる。言いたいことなんてない。口を開くのも面倒だ。心の中の思いをどうしてわざわざ口に出さなくてはならないのか。そもそも心の思いをどんな言葉で表現などできると言うのか。
そう言う思いがブログを途切れ途切れにさせる原因なのだなあ。
書いている意味がわからなくなる。「誰が読むねん。」と思ってしまう。
書き続けるのは少し義務感もあるのだ。
インタビューは上手。
(自分で言うか・・・)
いろんなことを聞いたり、話を引き出したりするのは上手い。
(自分で言う・・・)
しかし、疲れるね。
昨日午後いっぱい会議があった。
このご時世なのでもちろんZOOMでの会議である。
内容は、非常に良かった。会議の間にある専門の先生からご体験も交えてレクチャーを受けるもので、知識だけではなく思いにおいてもとても大きな宝をいただいた気持ちであった。
しかし。
最初から少し腹立たしさを覚えながらの会議であった。
(ああ、言っちゃった・・・)
私の中の「ちゃんとしなさい」感が膨れ上がっていて、「ちゃんとできていない」人に対してもものごとに対しても非常にイライラしてしまうのだな。そう言う思いを昇華して実りある話し合いへと変換できれば何よりなのだが、如何せん初めから腹が立っておる(笑)
途中で帰宅した夫が聞いていて、後で言葉使いを注意された。
ありがたいことだ。全くありがたいことだ。
歳を取ったら少しは穏やかになるかと思えば、なんとますます立腹の沸点が低くなる。いやすぐに腹が立つ。これはなんだ?
と言うことで、こんなことがあったらかつての私はますます人との接点を減らしてしまうところである。
でも今は違う。
夫は、「あの言葉はよくない、あのような答えかたは相手を萎縮させてしまう、こう答えれば良いのに・・・」と具体的に教えてくれた。
海より深く納得であった。
萎縮させる言葉。私の発する多くの言葉はそうであった。
皆さんに満遍なく好かれようとは思っていないが、本当は喧嘩を売るのも良しとはしない(つもり)である。改めて言うが本当だ。
甘えるのが嫌いな上に甘やかすのも嫌いなのに、何が甘えで何が甘やかしなのかも本当には知っていない自分に気がつく。優しい言葉は甘やかしではない。「ちゃんとする」ために「ちゃんとさせる」ために、優しい言葉は骨をも溶かす威力なのだ。
そろそろ自分育てを終えて、若い人、周りの人を育み培う年代の自覚が必要だなと実感したのであった。
優しい言葉かあ。
なんとか嘘くさくならないように優しい言葉を言える人になりたいなあ。
サワヒヨドリの花
父の好きだったミヤマリンドウ
思い巡らすこと [その他いろいろ]
「百花為誰開」
尊敬する先生に教えていただいた言葉。
今回この言葉で自然に思い巡らしの時を持たせていただきました。
野に咲く花々。花屋に売られている花々。庭に咲く花々はもちろん。
自分自身の事。家族のこと。周りの人々のこと。
そして、神様のこと。
うちの小さなベランダにも春になり様々の花が咲き始めました。
娘が私の誕生日に毎年贈ってくれる勿忘草やマーガレットの苗が、今年も美しい花を咲かせています。
この小さな花は、誰のために開くのか。
街にはあちこちに野の花が咲き始めました。
明日には刈り取られるかもしれない草花です。
花を咲かせても実を実らせることはできないかもしれない。
ただ踏まれて枯れてしまうかもしれない。
この花々は誰のために開くのだろう。
罪深い迷いやすく愚かな弱い私は、63歳を迎えてどんな花として置かれているのだろう。
日々すぎていくこと毎に流されながら、痛みを痛みとして喜びを喜びとして、苦しみを苦しみとして感謝を感謝として、私の人生に取り込みながらどんな花を咲かせているのだろう。
その花は誰のために開いているのだろう。
今回この言葉で自然に思い巡らしの時を持たせていただきました。
野に咲く花々。花屋に売られている花々。庭に咲く花々はもちろん。
自分自身の事。家族のこと。周りの人々のこと。
そして、神様のこと。
うちの小さなベランダにも春になり様々の花が咲き始めました。
娘が私の誕生日に毎年贈ってくれる勿忘草やマーガレットの苗が、今年も美しい花を咲かせています。
この小さな花は、誰のために開くのか。
街にはあちこちに野の花が咲き始めました。
明日には刈り取られるかもしれない草花です。
花を咲かせても実を実らせることはできないかもしれない。
ただ踏まれて枯れてしまうかもしれない。
この花々は誰のために開くのだろう。
罪深い迷いやすく愚かな弱い私は、63歳を迎えてどんな花として置かれているのだろう。
日々すぎていくこと毎に流されながら、痛みを痛みとして喜びを喜びとして、苦しみを苦しみとして感謝を感謝として、私の人生に取り込みながらどんな花を咲かせているのだろう。
その花は誰のために開いているのだろう。
思い巡らしは終わりません。
はっきりとした答えを出したくはありませんでした。
いろんな答えが心に浮かびましたが、きっとその思い巡らしの時が大切なのだと思いました。
願いと最善と [その他いろいろ]
秋から胃腸を壊して、体調がなかなか良くならない日々を過ごし、5キロほど痩せて服も合わなくなり、ズボンの中にセーターを入れてずり落ちないようにして過ごしている(笑)
慌ただしくも忙しい毎日には変わりなく、それでも一年前に比べて見ると時間はあるのだなあ。
父母が召されてまもなく一年が経とうとしているが、この一年は始末しなくてはならないことが次々にあり、先週はおそらく最後であろう二人の医療費のお知らせが、もう無人になった家のポストに届いた。こうして。二人が生きていた足跡のようなものが一つずつ消えていき、遺された者のしなくてはならないことも片付いていくのだな。
結婚したみーは、ほぼほぼ音沙汰なく(笑)幸せに過ごしているのだろう。家の模様替えをしようと片付けながら、五人が揃って生活していた空間が、広々として行き、音がなくなりものがなくなっていくのを、落ち着いて静かに眺めながら、少しずつ違う新しいものに目を向けている。
いま病の中で最期の戦いを戦っている人がいる。
どんなに愛していても、そのいのちの戦いを代わりに戦うことはできない。
やがて確実に来るその時を、ただ心を絞り出すようにして祈る。
もう「なぜ」とか「どうしてですか」という問いはない。
人の弱さと小ささと罪深さと脆さと、同時に神様の全能と義と愛とを思う。
信じよう。最善を尽くしてくださる方を。
実のなる木 [その他いろいろ]
クリスマスが過ぎ、お正月も過ぎて行った。
いつもと全く違った日々が、当たり前のような顔をして通り過ぎて行った。
最後の書き込みから2ヶ月が経った。
♪ 地のちりに等しかり 何一つ取り柄なし
今あるはただ主の 愛に生くる我ぞ
御救いを受けし 罪びとに過ぎず
されど我 人に伝えん 恵み深きイエスを
「ああ、そうだった」と原点に戻ることさえ忘れるほど、「生活〜生きること」にのめり込んで過ごしていた。なんということはない、12月には両親の家を処分して、またひとつ失って行くものを思い返し、それでもお腹はすき、ゴミは出る。
季節は移り変わり、時は過ぎて行く。それでいい。
私の中でも様々な移り変わりがあり、過ぎて行くものとなお求めて行くものがある。
持ち続けるために耐え忍ばなければならないことと、次に渡して行くために手放さなければならないことがあるんだな。
主よ。それを見極める知恵を与えてください。
持ち続けることに耐えられなくて楽になるために安易に手放してしまうことがないように。渡さなければならないことをいつまでも握りしめて腐らせてしまうことがないように。
毎日 [その他いろいろ]
長いトンネルはいろいろなことを考えさせられる。
必ず出口があることくらい知っている。
でも、いつ出られるんだろう。
トンネルの中であっても、走っている限り前に進んでいると思っていいのか。本当にいいのかどうか不安になる。
トンネルを走っていて一番嬉しいのは、出た時ではない。遠くに出口が見えた時だ。切り取られたような明るい出口が、映画のスクリーンのように光って輝いて見えた時だな。
そんなことを思いながら毎日を過ごしている。
遠い道を歩いている時、私はその一歩が目的地に近づいていることを思うと、どんなに重い荷物でも耐えていけると思う。一歩ずつ確実に近づいているんだ。
よろよろしながらでも、小さな一歩でも、確かに近づいているんだ。
そう思いながら毎日を過ごしている。
もっともっとあなたと出会いたい
もっともっとあなたと語りたい
もっともっとあなたと親しくなりたい
もっともっとあなたを知りたい
イエス様
もっともっと。
自分のこと [その他いろいろ]
梅雨も明けるのか明けないのか、今日も暑い朝だった。
会議があるとかでみんみは今日もお弁当を持って出勤。
会議に出るためではなく、その間の受付をするために(笑)
仕事があり、それができるという事は本当に感謝な事です。
私は、年子の三人姉妹の長女。年子だから姉妹の中では長女という意識はなかったように思う。でも、両親からはお姉ちゃんである事、長女である事にまつわるしつけ?は、後で母がかわいそうな事をしたと行って泣かれるほどあったのだろう。
長女あるあるで、年子であろうとなかろうと、やはし長女気質は共通なのだ。
一歳の誕生日の二日後に妹が生まれた。
だから現在長女歴61年(笑笑)
これをなかったことにするのは不可能なのだ。もう61年染み付いた長女癖は、簡単になかったことにも忘れることもできないのだ(開き直り?いやいや深く自覚するということ)
もちろん、それを理解して抑える事はできる。でも、意識して抑えると逆に強く反応が出てしまう事だってあるんだなあ。
幼い時、お客様が来られるとご挨拶をするのは私。
お土産をいただいた時、お礼をいうのも私。
好きなものを取って良いんだよ、と言われた時、一番最後に取るのは私。
剥かれたリンゴの一番小さいのは私。
可愛い色のオモチャやものは、私のものではない。
私の色は青。
三人でいたずらして怒られるのは私。
これは、当たり前のことと思っていたので、特に長女は嫌だとか損だと思ったことがなかった。多分妹たちもそんなこと考えた事はないだろう。
嫌だったら嫌だと言えば良いのだ。好きものは好きだという理由でもらえば良いのだし、大きなリンゴを取っても良いのだ。長女だって赤やピンクの可愛いものを好きだって良いのだ。大学だって、働きながらでも行ったらよかったのだ。好きな事をしても自分で責任をとってしたらよかったのだ。
なんて、今なら考えられるけど、1歳からの様々な教訓と経験はしっかり染み付いて私という人間を作り上げてしまったのだな。でも、私は被害者ではない。何かを待ったり、我慢したり、諦めたり、遠慮したりする事は難しいことではなかったから。誰でもみんな、そういう成長の中での影響を受けずに大人になる人はいないのだから。
そうして大人になる過程の中で、さらにいろんな影響を受けて、作り上げて、練られて、学んで今の私があるのだから。それで良いのだ。
と、少し体にも心にも、頭にも疲れを覚える62歳は思うのだった。
その間で [その他いろいろ]
相変わらず空を見上げている。
夕方の空が多い。
慌ただしい一日の締めくくり。
必死に自転車を漕いで、信号で止まると、深いため息をついて空を見上げる。
買い物の帰りに、お店を出て自転車置き場まで歩く間に空を見上げる。
父の病院は面会が自粛ということで行けなくなったが、空を見ているとなぜか心は平安になる。
ほとんど目を開けることがない父は、廊下側のベッドに寝ていて、窓の外を見ることはできない。
明るい陽がさすときも、暗く雨音の響く日も、静かに寝ているだろう。
空がどんなに青くても、雲がどんなに美しく流れていても、夕方の空の白い薄い月も、その目で見ることはないけれど、父の心の中にはその全てがあるだろう。
私がどうしてこんなに空が好きなのか。わからないけれど、同じ町に住むようになって、父と出かけるときはいつも空を見上げてはともに感動したものだ。
下を見ると父の大好きな小さな花々が咲いている。
上を見ると天が開けている。
その間で生きている。
「待つこと」 [その他いろいろ]
私は、ずっとなんでも速やかに手際よくことを行うことを良しとして来た。
「仕事が早い」と言われ、そのことを恥ずかしいことに誇りとしていた(笑)
仕事をするときには、頭の中で次のことを考え、その手順を想定し、どう動いたら能率的になし終えるかをいつも考えていた。
ここ数年、物事が速やかにはいかないこと、手際良くしようとしてもできない状態、とても能率的とは言えない方法を使わなくてはならないこと、次に何が起こるのかを想定できない状況の中で日々を送るようになり、自分としてはイライラするかと思いきや、これが・・・。
「待つこと」は次に至る出来事までの過程を、どのように過ごすかによって全く違うイメージが出来上がる。
「待つこと」は自分のことだけ考えて入ればいいと思っている間違った思考を、周りの状況や周りの人々へと目線を変えて思いやる者へと私を変えてくれる。
「待つこと」は想像への世界が広がること。
「待つこと」は、愛を増してくれる。
「待つこと」は備えの大切さを教えてくれる。
「待つこと」は私の忍耐力を鍛えて、謙遜を学ばせる。
「待つこと」によって、のちに起こる全てのことを受け入れようとする力をうちに与えられる。
「待つこと」は、その間の一瞬一瞬を楽しみ慈しむ思いを起こしてくれる。
明日からアドベントに入る。
この闇に満ちた世界に、救い主は最も弱い赤子の姿をとっておいでになられた。
クリスマスを待ち望むこの季節は、喜びの季節であり待望の季節だ。
そして、この小さな私の日々にも、「待つこと」の重さと深さを教えてくれる季節だ。いつか栄光の主が来られる時を待ち望みつつ。
隙間の三日月
取り留めもない事 [その他いろいろ]
五月だと言うのにこの暑さ。
私の周りのみんなも声を揃えて「夏はどないなるんや」と嘆いている。
今週に入り少し落ち着くみたいだけれど・・・。
気温の変化や習慣の変化によって、体調や精神的にも大きな影響を受ける。
還暦も過ぎて老いていく我が身の行く末を考えると、どのように与えられている人生の時間を過ごすか、人間関係を糾していくか、何をするべきであって何をするべきではないのか。備えと言うよりも現実問題として考えていかなくてはならない。今現在の生活とも無縁ではないのだな。これが。
今年3月からいきなり持病の数値が悪くなり、原因もわからず、毎回診察に行ってはがっくりして帰ってくる。どうしてなのか・・・何が悪いのか・・・何も変わっていないのに、何も変えていないはずなのに、なぜ数値が悪くなったのか・・・わからない。
原因がわからないって本当に身体にも心にも悪いねえ。
また6月の診察日が近づいてくる。
優しい看護師さんたちは慰めてくれるけど、数値は過酷で正直だ。
昨日は奇跡の手の先生の整骨院に行き「いっったあーーーーい!!」と叫び声を上げてきた。隣のベッドにいたみんみは笑っていただろうよ。
痛いんだよ!!!!
筋肉が硬くなっていること(柔らかくするため鍼を打ち指圧する)
むくみが溜まっていること(老廃物がよく流れるようにマッサージする)
「リハビリしてくださいね」と優しい声で言われても、容赦ない指圧とマッサージの受けた後では、心の中で「い!や!だーーー!!!」と叫ぶしかない。
わかっているんだけど、施術の後にどんなに軽くて柔らかくなっていることか!
わかっているんだけどね。
日々の努力というものは、何であれ苦しく難しく成しがたいことですわ。
とりあえず、今日の1日を喜んで過ごそう。
取り留めのないことに頭を悩ませながらそう思ったよ。