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変わっていく・・・。 [想い出いろいろ]

今年も総会大会に出席してきた。


「今年も」と書いたけれど、コロナの間3年間は、ほぼ総会と派遣礼拝のみで、静岡にあるホテルの施設を借りて開催されたのだった。


今年は四年ぶりに、神学校のある茨城の施設で懐かしい方々とお顔を合わせて、足掛け四日間のプログラムであった。


シオン通り朝.jpg


門を入ってすぐに、多くの古い大木が伐採されていることにショックを受けた。

この四年の間に何があったのだ!

敷地内のかつての風景は様変わりして、がらんとしたあっけない景色になっていた。

あちこち敷地内を「ええっ!!なんでやねん!」うわっ。無くなってる!」などとツッコミを入れながら会場まで歩く。


学院の畑.jpg


新しい計画があるのだろう。

そう思いたい。

良い計画であって欲しい。

そのビジョンが楽しみと喜びに満ちたものでありますように。


一万二千坪の敷地とはいえ、なだらかな斜面が続いていたり、葦で覆われたかつての池や、蛇が住んでいる広い湿地帯。古びてもう人の住むことのできない多くの宿舎。

どこを見ても思い出に満ち満ちているけれど、あまりにも古くて、手の入れようも無い広いだけの土地・・・。


かつての見事な桜並木も、3本並んだ仲良しの杏の木も、春になると良い香りを漂わせた沈丁花の大木も、遠くから見ても聳え立つ白木蓮の木も、枝いっぱいにピンクの花を咲かせた百日紅の木も、お茶の葉の生垣も、柿の林も栗の林も、豊かな作物を実らせた広い広い畑も、春ごとにおたまじゃくしが泳ぎ、子どもたちがザリガニ釣りに歓声を上げた鯉の泳ぐ池も・・・もう無くなった。遠い遠い昔のことなのだなあ。


時が過ぎるということの残酷さを改めて教えられた。

歳をとるはずだ。


無くなったもの全ては、人の手が懇ろに加えられて保たれてきたものだった。

その人手がなくなった今、どうやっても保つことはできないのだ。


故郷も変わる。

懐かしい土地や物も変わる。

指の間からこぼれ落ちるように時が過ぎていく。

大宮寮と桜.jpg


そして、そうでなければ出来上がらない新しいものが作り上げられていくのだろう。


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何年経っても [想い出いろいろ]

今年の私の誕生日に、いっちが贈ってくれた勿忘草が長いこと咲いている。

小さな株をそれぞれ鉢に植えて、室内に置いて楽しんでいるものはこんな感じ。

室内の勿忘草.jpg
そして、ベランダの日当たりの良いところに、四株まとめて植えてあるのはこんな感じ。
ベランダの勿忘草.jpg
同じように根を張り、葉を伸ばして蕾をつけて綺麗な花を咲かせた。
同じ株なのに、こんなに姿が違うなんて改めて驚きだ。
どちらも正真正銘の勿忘草。同じ株。
室内で暖かく、陽の光をガラス越しにいっぱいに浴びてのびのびを葉を茂らせ、茎をぐんぐんと伸ばして広々と咲く花。
そして、開花は室内の株に比べるとはるかに遅く、みっしりと詰んだ葉の間からゆっくりこっそり濃い青紫の花を咲かせたベランダの花。
どうしてこんなに違うのかなあ。環境の影響ってすごい。
さて、私がいつも懐かしく思い出す昔々の北の国で、毎年春と夏の境目に田んぼの畦道で見た大好きだった勿忘草はどちらだと思いますか?

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古い日曜学校の歌集 [想い出いろいろ]

私の手元に一冊の歌集がある。

今から50年前に父が作った日曜学校(教会学校)の歌集である。

その当時どれくらいプリントの技術が家庭に普及していたか知らないが、絵も楽譜も綺麗にプリントしてある。切り貼りした後が薄く写っているので、きっと何らかのコピー機を使ったのだろう。家(教会)にそんなものはなかったはずだ。どこかで借りたのだろうか。

ガリ版で週報などを作っていたのは知っているし、私も原稿を作ったり擦ったりした経験がある。

でもそれではない。

一枚ずつ折り曲げてホッチキスで留め、表紙は糊付けしている。

とにかく、もう表紙もボロボロのその歌集が懐かしく愛おしく、まだ30代だった父が、新しく教会開拓を始めた町で、希望を持って作ったのであろう想いが迫る一冊だ。

一曲づつ口ずさむと、あの古い小さな一軒家の教会と、和室をつなげた礼拝堂を思い出す。

まだ中学生になったばかりの私は何にもわからず、両親の祈りも願いも、また希望も理解していなかった。

どのくらいの子どもたちが集まっていたのか覚えていない。いやそれどころか、どんな風に集まりが持てていたのかも覚えていない。

なんてこった!そういえば、習字教室をされていた信徒さんの所の子どもさんたちが来ていたかな。信徒さんの子どもたちも集まっていたのかもしれない。

 

裏表紙に住所と学校名と、氏名が旧姓で、拙い中学一年生の私の字で書いてある。


もうその住所にその家は建っていない。

何年も前に更地になって、その後しばらくして新しい綺麗な家が建っているのを、いつか夫とその地を訪ねた時に見た。

家の前の庭にそびえていた三本の大きな杉の木も切り倒されていてない。周りの家々もすっかり変わっていた。

父の開拓した教会は、転任になった父の後にきてくださった若い女性の牧師先生によってその場所から離れて新しく建てられ、さらに建てられ、あの小さな古びた家の教会は、大きな素敵な美しい、青い空に十字架の輝く素晴らしい教会になった。

そして、あの頃を知っている人たちも、多くは天国に帰って行かれた。そう父も母も。


手元に残った歌集を見ながら、時の流れとともに変わっていくことと、どんなに時代が変わっても変わらないこととを思い巡らしている。


北見の教会学校賛美集.JPG


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電線の向こう側 [想い出いろいろ]


泉ベランダ.jpg


妹のマンションのベランダからの眺め。

空も竹林も大好き。

そして電線。


昔々に聞いた話だけど・・・

明治の時代、ようやく田舎にも電話が通って、電柱に電話線が張られたそうな。

受話器の向こうから、遠い街に住む息子の声が聞こえる不思議。

おばあちゃんは、息子に食べさせたいものを風呂敷に包んで、そっと電話線にぶら下げた。

という話。


そういう話を思い出すから、青空に横切る電線は嫌いじゃない。

その向こうにつながる人を想うから。

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ありがとうございました、先生。 [想い出いろいろ]

たかが中学2年の時に、軽い睡眠障害や胃腸が弱って食べられなかったり戻したりし始めた時。近所のおじいさん先生の病院に行った。

先生は、ゆっくり話を聞いてくれて、どこの中学に行っていて何部に入っているかを聞いてくれた。地域に根ざした診療を続けておられた先生は、少し前まで小学校の校医もされていたので、学校の事情もよく知っておられた。

たかが所属していた部活の厳しさや彼が負っている重荷を、多分親である私よりもよく理解してくれたのだろう。「安定剤」を処方してくれた。

たかは、おじいさん先生が「大変だね。でもすごいことだね。好きなら頑張ってするんだ。でも心配しすぎないようにね。楽しんでね。」といった言葉に慰められたのかもしれない。

症状はやがて治った。


私も持病を見つけてくださり、途中でもっと専門のところが良いからと、今通っている病院に紹介状を書いていただいた。本当に感謝している。


2020年に亡くなった母も、おじいさん先生にお世話になった。優しいお顔と優しい声と適切な診断とともに、つるっとしている頭が母は殊の外気に入って「ペコロス先生」と呼んで親しんでいた。


昨年、医師を引退して病院を閉じるとの話を聞いた。

そして、先週病院のあった道を通ったら、解体工事が始まっていた。


先生、お元気でいてください。

市の医師会のえらいお立場におられながら、難しい年頃の子どもにも、高齢の母にも、本当に親身になってお話を聞いてくださり、寄り添う治療をしてくださいました。

ご高齢の方の往診をするために、午後の診察をお休みされることがありましたね。自宅療養のご家族にとって、先生の存在がどれほど心強かったかと思います。

私の家族みんなが本当にどんな痛みや身体の心配を相談しに先生の病院の玄関を尋ねました。

ホームドクターという言葉がぴったりの先生でした。


先生、本当にありがとうございました。


ペコロス先生の病院の玄関

森下さんのスリッパ棚.jpg

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雨降りの日 [想い出いろいろ]

久しぶりに雨が降った。

ずっと晴れの日が続いていて、洗濯物がよく乾いたし、青空が本当に気持ちよく広がって、晩秋とはいえ日差しが眩しくて嬉しかった。

でも、この火曜日、夜半から雨の音がしていて、朝は薄暗い空から雨が降り続いていた。しとしとと降り続いていた。


雨が好きだ。

私にとって、雨は長い冬が終わって春が来たという知らせだ。

ようやく雨が降って黒い土が見え始め、軒先に下がる氷柱が溶け始める。

春が来たしるしだ。


一日中部屋の中で仕事をして、夕方用があったので雨の中を歩いた。

傘をさして歩きながら、雨の日の思い出を頭の中で一つ一つ思い巡らした。

幼い頃初めて新しい傘を買ってもらった時のこと、雨が降っていないのにその傘をさして外に出て雨が降るのを待っていたこと。

10代の頃、心の中に様々なやるせなさが募って、土砂降りの中を傘もささずに歩いて帰ったこと。おかげですっかりずぶ濡れになってセーラー服のスカートのひだが無くなってしまった。そして心の中のもやもやも一緒になくなった。玄関で足元に水溜りができるのを眺めながら自分に大笑いしたあの日。

駅まで夫を迎えに行く雨の日。車だったら迎えに行く意味もあろうに、傘を持っててくてくと駅まで迎えに行く。駅の入り口で改札から夫が出てくるのを待つ間が楽しい。

この間の雨は、故郷をも思った。

あの山に囲まれた小さな町にも雨は降っただろうか。

土の香りと雨の匂いが頭の中に思い浮かぶ。


この季節、しなくてはならないことに日々追われているけれど、雨は頭も体も心も一休みさせて、静かに深く思い巡らす時を与えてくれた。

会うことはできない…見ることが出来ない…話すことも声を聞くこともできない…忘れることが出来ない大切な人たちのことも。


夕方曇り空.jpg


そして雨はあがった。


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幼い日のこと(3) [想い出いろいろ]

子どもの頃は、なんでも遊びにつながるのだった。

外にあるものは全て遊びのためのものだった。もちろん、おままごともした。オオバコや赤まんま、どんな葉も花もおままごとのご飯になった。でも、女の子しかいないので、お父さんのいないお母さんばかりのおままごとだった。


多分一番遊んだのは手を繋いで遊ぶ遊び。

「かごめかごめ」「今年の牡丹は」「とおりゃんせ」「はないちもんめ」などなど。お友達みんながお母さんたちから次々と昔の遊びを教えてもらって、みんなで遊んだ。みんなで輪になって踊るのが本当に面白かった。


少し学年が上がると、石蹴り。

毎日道を歩く時には下を向いて、石蹴りにちょうど良い石を探しながら歩いた。良い石はもちろん家に持ち帰って大事にしまっておく。お友達が良い石を持っていると本当に羨ましかった。石蹴りもいろんな形があって、オーソドックスな丸を繋げる「けんぱ」も結構遊んだけれど、そのうちレベルが高くなって言って、自分の陣地を作っていく大きな石蹴り用の四角い図面を土に書いて遊ぶようになった。

そう!大きな通りも、家の周りもどこもかしこもコンクリートもアスファルトも引いていない土むき出しの道だった。雨が降るとへこんだところに水たまりができる土の道だ。歩いているとあちこちに石蹴り用の四角や丸が書いてあるのだった。



ゴム跳びもよくやったなあ。飛び方にいろんな名前があって、難しい飛び方をする子はみんなの憧れだった。私はただでも運動ができなくて、走るのもなんでも遅かったから、ゴム跳びなんて言ったって、すぐに引っかかってしまう。上手に飛べる子が羨ましくも憧れたものだ。


虫取りもよくした。網なんてないので棒の先に針金を丸くして付けて、軒下の蜘蛛の巣を引っ掛けて虫をとる。一回使うともう使えない。あるときにトンボを捕まえたら、一緒にいてくれたおじちゃんが「お母さんトンボが探しているよ。放してあげよう。」と言った。みんな「そうだよ、かわいそうだから放してあげよう。」と言ったけれど、小さい妹が「お母さんトンボもちゅかまえればいいよ。」と言い放った笑


私はどちらかというと外遊びよりも本を読んだりするのが好きで、家にある本はみんな何度も何度も読んだものばかりだったので、お友達の家の本を読むのが楽しみだった。ある時お友達の家で本に夢中になっていて、みんなは私を置いて外に遊びに行ってしまったことがあった。ふと気がつくと家の中には誰もいないのだった。その後どうしたかは覚えていない。私のことだからそのまま本を読み続けたかもしれないな。


冬の遊びは特別。なので「続く」なのだ。

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幼い日のこと(1) [想い出いろいろ]

両親は、留辺蘂の小さな教会の前に小さな畑を作った。

玄関から出て右側に父が作った小さな砂場があったが、その向こうに作られた畑では、ネギやナスやとうきびやエンドウ豆が収穫の季節になると次々に出来て、小さな私たち姉妹は、笊を持って小さな手で収穫の手伝いをした。

玄関から表の細い道まで、砂利を引いた短い私道があって、右にはマーガレットの株が連なって植わっていた。季節になるとたくさんの白い花が咲いた。私たちは容赦無く花を手折って遊んだものだ。左にはクコの株が植わっていて、父はその葉を摘んで干してクコ茶を作って飲んでいた。私たち姉妹も飲まされたが、私はそのへんに甘くて臭いお茶が苦手であった。

そして、その横に父はささやかな花畑を作った。入り口に大手毬の木が植わっていて、季節が来るとクリームがかった大きな花房をつけた。その花が大好きだった。母は、時々ひと枝手折って学校に持って行かせてくれた。教室の先生の机に、その花を飾る時に、なんとも言えない誇らしい思いがしたことを覚えている。

その花畑に他にどんな花が植わっていたのか、はっきりと覚えていないが、ある時教会を訪ねてこられた偉い先生に、父はその花畑を案内していたのだから、多分案内するに足る花々が植わっていたのだろう。春だった。私たち姉妹は、お客様を喜ばせようと、北海道の大きなタンポポの花を編んで、花畑の中にあったアーチの門に飾った。ところが、花粉症だった母は、そのタンポポのせいでひどいアレルギーの症状を起こしたのだった。良かれと思った事が悲しい結末になった。

母方の祖父母の家の奥に、線路まである広い畑があった。時折蒸気機関車が大きな汽笛を鳴らして走っていく。いろんな花や野菜が植わっていて、祖父は楽しそうに手入れをしていた。小さな作業小屋には金眼銀目の白猫が住んでいた。

教会の前の細い道の向こうは、広い広い田んぼであった。あぜ道に咲くタンポポ、ミゾソバ、勿忘草、ぺんぺん草、オオバコなどの小さい花が大好きであった。

学校から帰ってくると、春も夏も秋も田んぼで遊んだものだ。途中に流れている小さな川や、田んぼの中の生き物たち。

春に、思いがけないところから芽を出し花を咲かせる福寿草。

夏になるとぐんぐん伸びていく稲の葉と夜の蛙の大合唱。

秋には、刈り取った稲の株の間を行進する子どもたち。

そして、冬はただひたすら広い雪野原になる田んぼで、何日もかけて作った雪の陣地での雪合戦。

思い出したらきりがない。

ゆっくり書いておこうと思った。


紅葉山の紅葉.JPG
紅葉山・・・。

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梅雨だから仕方ないんだよ [想い出いろいろ]

 飛び飛びに続けている聖書の通読箇所が列王記に入り、読み進む中で鬱々としてくる。聖書にではなく、その記事にではなく、人の弱さと愚かさと罪深さと情けなさに…。我が身を省み、何千年経とうと人の本質は大きくは変わらない。本当に変わらない。


変わらないんだよなあ・・・・。


時は梅雨。

気圧も低いし、空も低い。

空気は重いし、体も重い。


この季節はそんな風に過ごすのがあっているのだろうなあ。


北海道に住んでいた頃、もう50年前だけれど、梅雨なんてなかった。

今は気候も変わり、梅雨のような季節があるのかな。


たまに夏の雨が降り、傘をさし、長靴を履いて、水溜りだらけのデコボコ道を歩く。

大きな水溜りがあると嬉しくて、わざわざ真ん中を通って行く。

水溜りの中の石は綺麗で、飽きずに眺めては目的地に着くのが遅くなっていた。

遅くなっている事にすら気がつかなかった。


あの頃に比べ、今の私はなんとせかせか生活している事よ。


変わってしまうことと変わらないこと。変わっていいことと変わってはならないこと。そんなことをのろのろと考えながら、答えが出ても出なくてもいいか…などと思い、はっと気がつく。答えを出すために考えているのではなく、考えるために考えている自分に。

ちゃんと答えを出せる自分よりも、ぐるぐるとのろのろと考えるために考えている自分がいいなあ〜なんて思ってしまう。


「ちゃんとしなくちゃ!」の私はだんだん年老いてきて「まあいいか〜」の自分に変わってきているのだな。


いいのかっ!?

いいのだ・・・・・。


ビーナスライン展望台6.JPG


いいなあ〜。



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なわすれそ [想い出いろいろ]

わすれな草満開.JPG

私の痛いほどの懐かしい思い出のほとんどは、北国の小さな町の小さな教会で育った日々の中にある。

年子で三人の姉妹は、朝から夜寝床に入っても続くごっこ遊びと一歩外に出たら開ける自然の豊かさに夢中だった。

春に夏に秋に冬。いつもいつもどこにいても季節の贈り物に満ちていた世界。


白く閉ざされる冬は、どこまでも青く透き通っていた。

吹雪の日は1日家の中で、本を読んだりカルタをしたり、トランプで遊んだり、折り紙をしたり、母が教えてくれる冬の遊びは限りなく楽しかった。

やがて滴り落ちる雫の音で春が開けていく。

家の前の見渡す限りの(子どもだったからそう見えた)田んぼが耕されて水が入る。

どの道もどの場所も、溶けた雪でぐちゃぐちゃで、でも吹く風の匂いは新しい春が来ていることを教えてくれた。

やがて一斉にすべての花が咲き始めるともう夏は近い。

夏のトンボやカエルや様々に咲き乱れる花。

遠くに見える大雪山とその手前に見える北見富士。

短い夏はすぐに過ぎ去り、風に冷たさが混じり、やがて雪虫が飛ぶ。

家ではそろそろクリスマスの準備が始まる。

遠い札幌から、クリスマスグッズと教会用品と本をたくさん積んだ車がやってくると、夢中になってはこの中から出てくる品物に魅入った。綺麗なクリスマスカードはアメリカの匂いがしたし、表面に飾られているキラキラの模様は、本の中でしか知らない違う世界を思わせた。

夜、寝間着のままでそっと外に出て見ると、凍るような空気の中で静かに暖かく雪が降り積もっている。空を見上げていると、凍える手足のまま空に昇っていくようだ。

吹雪の日があり、日が差して目が開けられないほど雪が輝く日があり、静かに雪が積もっていく日があり、そうして少しずつ終わらないと思えるほど長い冬が通り過ぎていく。

冬には凍ってしまう武華川(無加川とも書く)が少しずつ動き始めて、やがてまた春がやってくる。

川岸に植わる柳の木は、春になると薄緑の優しい新芽をたくさん付ける。


そんな書ききれないほどの思い出の中心にその教会はたっていた。

私たちの家。

私たちの教会。


留辺教会.jpg
この春雪が消えたら解体される。
建てられて約60年。よく持ったほうだと思う。
もう人の住まない家は、残念だけれど荒れてしまう。
さようなら。三角の青い屋根。
さようなら。塔の上の十字架。
さようなら。小さな教会。
そしてありがとう、ありがとう、ありがとう。

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あれから24年 [想い出いろいろ]

いつもと同じように夕方を迎えた。

日が沈んで食卓を囲み、賑やかに夕食を食べた。

その日は、大きな集まりがあったので、とても疲れていた。

お客さんたちを送り出し、みんなで後片付けをした。

昼食に出た赤だしのお味噌汁が残っていたので、うちの台所に大鍋をおいたままにしていた。


今日のように明日があり、いつもの朝を迎えるのだと何の疑いもなく休んだのだ。

いっちとみんみは二段ベッドの上と下に、まだ3歳だったたかは私たち夫婦の間に寝ていた。

静かな夜だった。


たぶん誰もがそう思っていた。

今日のように明日があり、そうして日々が繋がっていくのだと。


でも違った。

震災金・松浦さんのアパート.jpg
あれから24年。
忘れる?そんなことはありえない。
忘れることなんか出来ない。
今も涙が溢れる。
あの日失われた人。
あの日失われたもの。
あの日から与えられた繋がり。
あの日から与えられたもの。
忘れない。

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モミの香りと紅玉 [想い出いろいろ]

久しぶりの昔話。

…でも、秋になると昔話がよく出てくるなあ。ま、いいか。

 北海道の短い夏が過ぎると、秋の気配もあっという間で「ほとんど冬」という季節がやってくる。雪虫が飛び、遠くの山の頂が白くなる頃だ。

 家々では冬の支度に追われ、うちだって窓のビニールの覆いをかけたり、毎日毎日薪割りをして家の外壁に積んで行く。夏でも出しっ放しだったストーブの煙突を掃除し、つなぎ目を確かめていつでも使えるようにしておくっていうか、もう使い始める。

 家の中では、布団を変え、衣を変える。夏に着たおとっときの半袖もひらひらのスカートも(ああ、懐かしい!綺麗な茶色のふんわり袖のブラウスとクリーム色のプリーツのスカート!)タンスの中で長い眠りにつくのだ。代わりに分厚いセーターと分厚いズボン、分厚い靴下、ジャンパーとマフラーと手袋と帽子が出てくる。靴だって、可愛いサンダルからごつい冬靴に変わる。でも、思い出して見たら、子供の頃はいつも長靴だったなあ。スキーだって、長靴にゴムを引っ掛けて履くスキーやったなあ。……古っ!!

 なんとも言えない寂しく暗い空と冷たい風がやって来て、町も山も川も、私たちさえも茶色と灰色に変えて行く。

 

でも、その季節に父の実家からリンゴやミカンや柿が送られてくるのだ。父の実家は、その頃まだ果樹園をしていたので、りんごも大きな木箱のモミの中に、紅玉やゴールデンデリシャスや王林がいっぱい入って送られてくるのだ。本当に楽しみだった。父が釘抜きを持って来て箱を開けると、なんとも言えない香ばしい香りがして、一面のモミをそっとかき分けると真っ赤な紅玉が顔を出す。誇らしげな父が、早速そのリンゴを磨いて、ナイフで一口ずつ切って私たち子どもの口に入れてくれる。甘酸っぱくて香り高いその味は、今でも忘れられない。

短い秋は、紅玉の香りと味とともにやって来て過ぎて行くのだ。


流れる夕やけ雲.jpg

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懐かしい本たち [想い出いろいろ]

想定外のことが起こっても、その時に的確に最善と思える対応をしていくこと。

切り替えスイッチと呼ばれたあの「ペリー・ローダン」に憧れていた中学校時代のこと。ローダンシリーズにハマって(まだ第3巻が出たての頃。「No3.ミュータント部隊」という題に惹かれて購入・・・そして・・・)大変な事になったけど、流石に神学校に行く事になってからは追いかける(笑)のを断念した。その時に断念したり、手放したりしたものはそりゃあたくさんある。惜しいと思ったことはないけれど、あんなに夢中になっていたその時代の自分のことをどう思うかっていうと・・・楽しかったなあ。楽しんでいたなあ。いろんな意味で自由の時代かな。


今はもっと夢中になることがあるのだから、その頃のことを懐かしいと思うけれど、「もう一度」とは思わない。


先日も妹と「新人物往来社」の本の話になった。本当に夢中になって購入して読んだなあ。一体何冊持っていただろう。お小遣いのほぼ全てを本に使っていたなあ。記憶力も最高の頃である。その事について話し始めたら、何時間経っても終わらない。


あれみんなどこにいったのかなあ。本も記憶も・・・。

遠い空の彼方かなあ(笑)


台風来てるのに・・.JPG

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こんな私が [想い出いろいろ]

60年間生きてきて、一番辛かった時はいつだっただろう。


あの時も、この時も、立ち上がることなんかできないと思った。

明日に進むことが辛くて苦しくて、このまま生きて行くことに意味を見出せない時もあった。

心の傷から流れるのは、失望の暗闇と怒りと落胆と渦巻く自分を責める思い。

世界のどんなものもそれを癒すことなんてできないと思っていた。

いつまで・・・いつまで続くんだろうと、心をかがめながら吹き荒れる嵐をやり過ごそうとしていた日々。

                                    




そんな出来事があったのに、その後どうやって過ごして、今こんな風に笑ったり楽しんだり喜んだりしながら日々を過ごせているんだろう。



時々、思い出しては胸が痛むときや涙が溢れる時もあるけれど、それでも、消す事など出来ないそれらの出来事の一つひとつが、こんなに愛しく感謝に変えられるなんて・・・・あの時しゃがみこんで苦しみながら時を過ごしていた私に教えてあげたい。


いや、そうじゃない。

教えなくて良い。知らなくて良かった。

あの暗黒の中を苦しみながら通って良かった。

もし、そうじゃなかったら・・・もし苦しまなかったら・・・もし明日を生きることさえ受け入れられないほどの痛みの中を通らなかったら・・・。


私は、私の人生の本当の意味と喜びを知ることができなかった。

もしそうではなかったら、私は、あり得ないことに、自分がどんなに愛されて愛おしまれて、かけがえのないものとして生かされているかを知らなかった。

苦しみと痛みの大きさを覆いつくす愛があることも知らなかった。

怒りや傷や自責の思いが、深ければ深いほど、そんな私が赦されて愛されているということの驚くべき奇跡を悟ることはなかった。


折に触れて、あの頃のことごとを思い出す。

いつも新しく強く深く胸を満たす思い。

それは



 私が神の子とされた

 罪人の私が

 


主よ。

こんな私が・・・。



雲の飛び石.jpg


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それでも春は来る [想い出いろいろ]

レントの季節が過ぎていく。

この日曜日は棕櫚の主日。今週は受難週だ。

レントのみ言葉通読表を読み進めている。

思い巡らすことが多い。忘れないように手のひらに書き込む。


わかっているようでわかっていないこと。

当たり前?いや。当たり前ではないことがあまりにも多すぎる。

わかったつもりでわかっていないこと。


「愛すること」は、どうしたらわかるの?

いや、そもそも「愛する」とはどういうこと?

そう、知恵で応えようと思ったらいくらでも説明する言葉は出てくる。でも、わかっている。そういうことではないよね、「愛すること」とは・・・。


ああ、何と鈍く高慢でいい加減な者か。

思い巡らすことをせず、忘れたようにして大切なことをないがしろにしている。


それでも、なんと・・・愛されているということ。

両手を上げて感謝しよう。

愛することを決心しよう。

そして、愛することを追い求めよう。

追い求め続けよう。

明日は洗足木曜日。


IMG_0955.JPG


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ぶどうの実り [想い出いろいろ]

クリスマスの準備が続いている。

細々したことが目白押しだけれど、一つひとつ心を込めて仕上げて行きたいと思う。そう、2017年のクリスマスは一度だけだから。


世間は24日のイヴが最大の盛り上がりみたいだけれど、本当のクリスマスは12月25日。12月25日は、クリスマスが始まる日。


北の国の小さな町の小さな教会のクリスマスを思い起こす。樅の葉の緑の香りと、色とりどりの硝子玉の輝き。木製の小さな粗末なろうそく立てに、ヒイラギをさして、小さなキャンドルの光が揺らめく。オーナメントは数少ないけれど、一年に一度クリスマスに会える懐かしいものばかり。窓にビニールを張り巡らしてもどこからか吹き込んでくる粉雪に凍えながら、小さな礼拝堂の中、家族でツリーを飾り付けてクリスマスを祝う。


何年経っても思い出は薄れることがない。



与えられた環境や状況を、良いこととして受け入れることは簡単なことではないけれど、感謝する時にすべては変わって行く。困難も苦しみも悲しみも、様々な問題も、貧しさも病いさえも。その中にあってもそれらに勝る平安と喜びがあることを知ってから。「それでも良い。」いや「それが最良のこと。」と知ることが出来たから。それがクリスマスの喜び。

豊かな溢れるばかりのぶどうの実りは、困難と痛みの汗と涙と忍耐の後に備えられ与えられるものだから。


                                                                        

IMG_0758.JPG
これは今年のうちの玄関

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冬です [想い出いろいろ]

季節は変わり年月は過ぎる。

北国では今年の雪が早かったと、ニュースで知った。

なるほど。



私が北海道を離れて内地に引っ越しをしたのは、今からもう44年前(うわー!びっくり!)の11月3日だった。

その日その年初めての雪が降った。

毎年必ずやって来るその初雪は、いつもの年とは違って、私たち家族にとって、住み慣れた北海道を離れる悲しみや寂しさや、不安や少しの期待をとても深いものにした。

サロマ湖月.JPG

両親にとっては、志半ばで全てを置いて行かざるを得ない、断ることなどできない苦しい転任だった。私たち四姉妹は、何も知らずわからず、なぜこんな季節に引っ越しをするのかも理解できずに旅の支度をし、フェリーに乗って北海道を離れる珍しさに心を奪われていた。


あれから44年。

それでもやはり私にとって、北海道は故郷であり慕わしい土地であり、いつでも帰りたいと思っていた所であった。もう、友人もなく知った人も少なくなり、様子もすっかり変わってしまったその小さな町を、どうしてこんなに胸が痛く苦しくなるほど懐かしく想うのだろう。

何度も何度も繰り返して言う。

故郷を慕わしいものとして思い返すことが出来る私は幸せなのだろう。帰ることが出来なくても、待つ人もなく、たとえ帰ってもかつての姿はなかったとしても……。



知床9.JPG


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夏が始まってるよ [想い出いろいろ]

毎日暑い。湿度も高くて気力も体力も低下する。


でも、夏はいろんなことが進んで行く。活動の季節。いろんなことをしてみよう。いろんなところに行ってみようと、気持ちだけは前向きにわくわくする。


北海道の夏は寒くて、長袖は欠かせないし、朝方や夜は寒い位の時があった。今は、気候も変わり、信じられないほど気温が高いとニュースで知る。


留辺蘂の家の前は、どこまでも田んぼだったから、夜通しかえるの合唱だった。遠くで夜汽車(今北海道はディーゼルだけど、私の子どもの頃はまだ蒸気機関車がほとんどだった)の汽笛が聞こえる。また、貨物車が長い長いガタゴトガタゴトという音を響かせて通って行った。夜だから余計に遠くまでその響きが聞こえる。それらの音が子守唄だった。


緑の丘.jpg



空は青く遠く高い。雲は大雪山からゆっくりと流れてくる。夕焼けは美しく、いつまでも夜は来なかった。窓辺で夕食のトウモロコシを食べながら、家族でいつまでも空を見ていた。


ほら、昔のことは美化されるけど、もう本当に遠い遠い昔のことだから良いのだ。きっと思い出を共有する人たちも同じことを言うに決まっているのだ(笑)


さあ、夏が始まる。

あれ?始まっている?


北海道空花畑.jpg


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昔の話 [想い出いろいろ]

高校時代を過ごした家は、父が舎監を務めていた神学校の「本館」と呼ばれる戦前から立つ建物であった。一階に事務室と応接室と、神学生の作業場や物置等やトイレ(いや、昔ながらのボットンだからトイレじゃなくてお便所かな)や使えなくなった焚き付け式のお風呂場や、父の書斎があり、二階の8畳三間に家族6人で住んでいた。

もちろん台所もお風呂もないので、食事は神学生といっしょに食堂で頂く。朝は7時、昼は12時、夕食は5時だった。お風呂は、敷地内の浴場に行く。お風呂の日は決まっていて、たしか月曜と金曜だった。


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神学校の林の中の道


私が中学三年だった十月に引っ越しが決まったので、それまでは昼間は働き、夜間高校に行く予定で準備していたのだけれど、急遽普通高校に進めることになり、慌てて受験勉強をし直したことを思い出す。家賃や光熱費、食費の支払いがなくなったのだから、舎監として給与がいくら低くても、私が普通高校に行くことになっても家族6人なんとか生きて行けたのだろう。


中学も高校も電車で隣町まで通った。

私は年子の三人姉妹の長女で、その下に12離れた妹がおり、女ばかり四人の子どもたちはさぞかしかしましく賑やかだったろうと思う。


それでも、朝は5時から夜は9時まで、神学生とともに祈り会や作業に出て行く両親を見ながら、人の出入りの多い建物の二階に住んで、当時三歳の妹はもとより、私たち姉妹もそこはかとない不安や寂しさがなかったかというと嘘になる。


それは誰のせいでもない。

もちろん父や母のせいでは決してない。


あの頃の毎日心の中に往来する行き場のない思いや不安や寂しさを、青年時代の私は、それなりに大切に愛おしく受け入れていたと思う。


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土砂降りの日に、傘をささず、制服(高校はセーラー服だった)のままで歩いて帰ってくる。ようやく家に着き、スカートのひだが無くなってしぼるほど濡れた制服のままで玄関に入ると、神学生や事務の先生の驚きの声を聞きながら、私は爽快で愉快で楽しくて仕方なかった。


あの日々に勝る無邪気なやけっぱちを、私はその後一度も経験したことはない。

…経験しなくっても良いんだけどさ。



こんな梅雨の雨降りの日には、あの時の不思議な心持ちを懐かしく愛おしく、そして、少しの涙を持って思い出す。



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思い出の本館下の野外便所

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失敗すること [想い出いろいろ]

「ちゃんとしなさい。」「きちんとしなさい。」が

私の成長過程での鉄板のルールだったので

私はいつも不安で一杯で、失敗することをそれはそれは恐れていた。

少しおとなになってくると

学校でも生活でもきちんとできない自分にイライラし

きちんとできない他人にイライラしていた。

自分が失敗することを恐れ、他人が失敗することを許せず

全く鼻持ちならない人間だったと

顧みてつくづく情けなく、また可哀想な自分に

心が痛む。


さて、子どもを育ててみて思うこと。

小さな失敗をたくさん経験することの大切さを教え

失敗が失敗に終わらないで、成長に繋がる素晴らしさを示す。


失敗することを責めることなく

許して励まして、前に進むことを促すこと。


今になってもなお、人はそうして成長して行くのだと思う。


神様は、私が失敗しやすく間違えやすいことをよく知っておられる。

でも、そういう私であることに、神様は失望されない。

失敗を重ねても、間違ったことをしても

それを赦して励まして、前に進むことを導いてくださる。


今になってもなお、私はそうして成熟して行くのだと思う。


駄目な自分を受け入れることは

それでも愛してくださる神様を信じることなのだなあ。


失敗しても恐れないで前に進むことは

赦してあきらめない神様に信頼することなのだなあ。



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