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植木と私

毎日暑い朝を迎える。

起きてまずするのは、ベランダの植木に水をやること。

亡くなった両親の育てていた鉢も、水やりのためにうちのベランダに移し持ってきた。

毎日毎朝水をやりながら、様々なことに思う時間がある。大したことを考えているわけではない。刹那的な思いが巡り巡って取り留めもない終着点もない結論も生産的な決心も、前に進む何かを生み出すこともない、泡のように浮かんで消える様々な思い。

それでいいと思っているけれど。


この夏の間に成長していく植木たちは、秋になりやがて冬を迎えて、花の季節を終えて葉を落として眠りに入るものもあるし、またその季節の中でも変わらず花を咲かせ続ける木も、さらに枝を伸ばして葉を茂らす木もあるだろう。小さなものも大きなものもそれぞれだ。みんな違う。



毎日毎朝水をやっていると、私がこれらを育てているんじゃなくて、私はこれらに仕えているのかなと思う時がある。疲れてしんどいときも、忙しく出かけなくてはならないときも、よろよろとホースを伸ばして水をやる。暑くなる前に、涼しい朝に水をやる。水をやらなくては枯れてしまうから。枯れて死んでしまうから。だからその恐怖に(笑)怯えながら私は水をやる。


あれ?おかしいな・・・と思う。


緑の葉を喜び、蕾を広げ花を咲かせることを喜び、葉が茂って広がっていくことを喜んでいるのに、同時に「仕えさせられている」感が拭えない。

小さな鉢の中に閉じ込められて、それ以上根を張ることもできないで、ひたすら与えられる水を求めて、それが無くなったら枯れるしかない限りある鉢植えやプランターの木や草に、なんだか息苦しさを感じるのだなあ。

育ててくださるのは神様。

たとえ小さな世界であっても、制限のある狭い世界であっても、いのちは神様のものだから、植えられたところで芽を出し花を咲かせ葉を茂らせる。生きる条件が整わなければ仕方がない。与えられた世界をそのまま受け止めるしかないのだ。

私たちに被造物全てを管理・支配するようにと神様は言われた。

その時人にとっては、きっとそれは喜びだったに違いない。

でもそれは損なわれた。

同じように、私の中にある罪は、それを喜ぶことができないし、従うことに困難を感じるし、全てをあるがままに受け入れることも委ねることもできないのだなあ。

「こうあるべき」「こうしなければならない」

神様のルールではない私のルールが、私の世界を縛っている。

硬く縛っているものを緩めていきたい。

もっと自由に、神様の恵みの中を歩みたい。

そんなことを思いながら水を撒いた朝だった。

モネの庭白い花.jpg

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