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幼い日のこと(2)食べ物

夏から秋。

私たちは道の側に生える大きな大きな、大きな蕗を折って持ち帰り、夕食に煮てもらって食べた。蕗は本当によく食べた。私は母が煮たちょっと甘じょっぱい蕗が大好きで、それさえあれば他に何も無くてもよかった。北海道の蕗は子どもの手首くらいの太さがあって、食べ応えもあるし、独特の香りが食欲を増してくれた。柔らかく煮た蕗のすじと皮を剥くと爪と指が灰汁で真っ黒に染まって嫌だったけれど、それでも母がそれを煮てくれると美味しい蕗の煮物ができるのだ。嫌だなんて言ってられない。たらいの水に浸かった蕗を、両手で持ってすじと皮を取る。小さな声で「おいしくな〜れ」と言いながら。

                                                
ルベ駅南側.JPG
                             

冬が近づくと、両親はとても大きなポリバケツを二つ三つ用意する。そして、飯寿司を作るのだ。大根、人参をひたすら刻む。そして、ホッケやハタハタを切って何度も何度も冷たい水で洗う。細かい行程は知らないけれども、そうして出来上がる頃には雪虫が飛んで空気はますますキンと冷えてくる。大きな青いポリバケツは寒い冷たい糠小屋に置かれて漬かるのを待つのだ。本当に美味しかった。ちょっとお醤油を垂らして食べる。口の中に冷たさと程良い酸っぱさと、魚のいい香りが広がって、野菜のシャキシャキした歯ざわりと、魚の締まった肉が口の中で、噛めば噛むほど旨味が広がって行く。少しずつしか食べられなかったけれど、大好きだった。

                                                                        


魚はホッケ。

茶の間の真ん中の、ひょうたん型の薪ストーブの上は、大きなところも小さなところも蓋が何重にもなっていて、かける鍋の大きさによって蓋を取る。お味噌汁や煮物のお鍋をかけながら、空いた方に網を置き、大きな大きなホッケを焼く。それは父の仕事だった。火加減を見て、父は端に寄せたりしながらなんとも上手にホッケを焼いた。上手なのは焼くだけではない。父は魚の食べ方も最高に上手だった。焼きあがると父は、私たち子どもに、骨のある側の骨をうまく剥がしてその下の柔らかい身を取ってくれて私たちのご飯の上に乗せてくれる。湯気が上がってホッケの油がたっぷりの肉をご飯と一緒に頬張る。骨のない側は、身が焼けて少し表面が硬くなっている。そこは母にあげる。そうして父は、両側のエンガワの下の脂ののったことろ、ホッケの顔のよく動いた顎や頬の味の濃いところ、身を取った後の皮に残る茶色の身、最高に美味しいところを、うまく掻き出して食べるのだ。小さな子どもの頃は「お父ちゃんがかわいそう」と思ったけれど、いまはわかる。そこは実は最高に美味しいところなのだ(笑)そうして、家族が食べ終わる頃、父は大きなホッケの骨を網に乗せて焼く。パチパチ油がはねていい香りがしてくると、サクサクに焼けたその骨を、私たちに食べさせてくれるのだ。

                                       夏のとうきびも忘れてはならない。もぎたてをすぐに茹でて、熱々をほうばる。こういう時に性格が出るのか。粒なんか気にせずにガブガブ噛んで食べる子。手で実をほぐして口に入れる子。三人三様の食べ方をする。ちなみに私は今でもやっぱり、ほぐして一列ずつ手にとって食べる派だ。とうきびが実る頃は、それが夕食だった。

 秋が来てジャガイモが出来ると、茹でた熱々のジャガイモにバターを乗せて、これも夕食によく食べた。ただそれだけの夕食だったけれど、家族で窓の外に広がる空を見て夕風に吹かれながら、田んぼで激しく啼くカエルの声を聴きながら食べるそれは、最高のご馳走だった。

                                                                             夕方ラッパを吹きながらお豆腐屋さんが自転車にお豆腐やおあげや納豆を積んでやって来る。たまにお鍋を持って買いに行き、大きなお豆腐や納豆を買って帰る。私たちは三人年子であったので、本当に小さい時は、父や母は大きな丼にご飯を入れて、そこに納豆を入れたり、あるときはお豆腐を砕いて入れて味をつけ、大きなスプーンでひと匙ずつ私たちに食べさせてくれた。よくそんな夕食を食べた。食べるのが遅い次女は、口に入れてもらうと耳たぶをこねながらゆっくりゆっくりいつまでも口の中で噛み続ける。三女はとにかく早いので、口にスプーンが入る回数も多くなる。そのせいか、子どもの頃の次女はいつもほっそりしていて、三女は顔もお腹もぷっくりしていた。三人を並べてご飯を食べさせながら、若い両親は何を考えていたんだろう。流れて行く日々の出来事の中で、将来をどんなふうに夢見ていたのだろう。目の前に口を開けて並ぶ三人の娘を見ながら、どんな期待を持っていたんだろう。私は、そんなことを思いながらニヤニヤしながらも涙が溢れて来る。

                                                                             父と母が、春にある教団の総会に出かけて、小学生だった私たちが留守番をしたことがよくあった。母方の祖母が来てくれていた。でも、学校から帰ってくる頃は、祖母も忙しくいないことが多い。それで、子どもたちだけでその頃出たてのインスタントラーメンを作ったことがあった。子どものする事だから、半分遊びである。麺とスープを分けて見たり、麺に違う味をつけて見たりごっこ遊びをしながら食べたラーメンの美味しかったこと。

 祖母は寝る時によくおとぎ話をしてくれた。三人が揃って寝ているところに、祖母も横になりながら話してくれるのだが、眠くなってくるのだろう。私たちの目は冴えて来るのに、祖母の話はシンデレラが毒入りのリンゴを食べたり、サルカニ合戦に泥の船が出てきたりとごちゃごちゃになるのだ。私たちは、やがて祖母の頭が揺れ始めて、お話も途切れてしまうのをなんとも言えずくすくす笑いながら見ていた。

小学校のすぐ横にあった祖父母の家までは、子どもでも歩いて5、6分と近かった。祖母は、私たちが寝るのを待って家に帰って行く。祖父母が住んでいるのに、私たちはいつもその家を「おばあちゃんのうち」と呼んでいた。今考えると全く祖父には色々申し訳ないことだった(笑)

                                                                             子どもの頃、よくうちに大きな荷物を担いだ行商のおばちゃんたちが寄って行った。薬やお菓子などを持ってやって来る。秋田団体につながる山を越えてやって来るのだ。母は、お茶を出して世間話をする。ある時頂き物のとっときのカステラをお出しした。すると、おばちゃんはカステラの下の紙まで食べてしまって、母は申し訳なさと可笑しさで困ったと言っていた。ちゃんと剥がしてからお出しすればよかったのにね。そのおばちゃんの売り物のお菓子は、不思議な懐かしい昔ながらのほぼ全てが茶色いお菓子だった。母は、教会の集まりのために、たまに買っていたのだろう。時折私たちの口にも入ることがあった。私は、綺麗なオレンジ色のガムやチョコレートの方がいいなと思っていて、おばちゃんの売っているお菓子はどれも美味しいとは思わなかったが、いまでは本当に懐かしい。

 綺麗なオレンジ色のガムは、くじ屋さんに売っていた。たまにいただくお小遣いの5円玉を握りしめて勇んで出かけて行く。おばちゃんに5円玉を渡してくじの糸を引く。ある時大きなオレンジ色のガム玉が当たって、大喜びで家に帰ると、父はそれを取り上げて水を入れたコップの中に入れた。そして、綺麗なオレンジ色がくすんだ黄土色になるまでつけておいてから、食べても良いと渡してくれた。それはほんのり甘いだけで、もはやなんの香りも味もしなかった。着色料や添加物が好き放題に使われていた頃の話だ。父に抗議はしなかったように覚えている。ちゃんと説明してくれたから。とても体に悪いものだということもわかった。でもそれよりも、ただただ悲しかったことを覚えている。

                   
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 幼い頃の食べ物は、いつも家族の思い出と繋がっている。若かった父や母。多分いまの私と同じ年頃であっただろう祖父母。眠い目をこすりこすり、朝日が差す茶の間でラジオのニュースを聞きつつ急かされながら食べた朝ごはん。オレンジ色の電気の下で、毎日毎日ちゃぶ台を囲んでいただく夕食。まだテレビもない頃の当たり前のどこにでもある家族の風景と、父や母が作るその頃の北海道の普通の食べ物がいまの私を育ててきてくれた。遠い遠い遥かに昔の毎日であり、遠い遠い遥かに古い食卓だ。

それなのに、何故か今よりも豊かで幸いな食事だったと思い返すのだ。


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