SSブログ

父と母のこと [家族の事]

父が危篤との知らせを受けたのは、5月の12日の早朝だった。

朝の2号線は渋滞していて、隣町の病院に着くまでの時間がもどかしく苦しかった。

延命治療を断っていたので、個室に移されて酸素マスクをつけた父の体には、血中酸素を測る機械と血圧を測る線と心拍数をはかる線が繋がっている先に、それらを示す機械が動いていた。

2月から2ヶ月半の間、コロナウイルスの感染防止のために面会もお見舞いもできずにいて久しぶりに顔を見た父は、とてもとても痩せていた。苦しい息をしながら時折目を開けていたが、その目には何も写っていないかのようであった。

少しずつ少しずつ血圧が落ち、心拍数が落ちていたが、それでも四日間父は頑張った。四姉妹が周りを囲んで賛美をし、祈り、介護した。いっときも離れずそれぞれがそのそばに付き添って、四人が一回りした5月15日、危篤と言われて四日目の夜に父は息を引き取った。静かな死であった。

同じ病院に入院していた母も、毎日車椅子で看護師に付き添われて父に会いに来ることが出来たことは本当に奇跡のようなことだった。母は、骨髄異形成症候群のために、様々な悪い症状が起きており、痛みと高熱と息苦しさで5月のはじめに緊急入院していたのだ。担当医は、母の方が父より先に逝くのではないかと言っていたのだが、結婚してから60年以上、体の弱かった父の介護をして過ごしていた母が、父の最期を看取ることが出来たのは、本当に神様の憐れみであった。

おそらくホッとしただろう。

母は、その病いのせいで胸の上部にできた悪性の腫瘤から流れ出る水が心臓と肺に溜まっていた。これから訪れるであろう溺れるような苦しさと心臓の圧迫を予想していた医師は、自分だったら麻酔や睡眠薬を使ってその苦しさから逃れたいと言った。

母は、その苦しさから逃れるために薬を使うことは、神様が与えられるものから逃れることになってしまわないのか、神様に申し訳ないことにはならないのかと心配した。

信じている神様から受けるものすべてを、たとえそれが苦しみや悲しみや、喪失や痛みであっても感謝して喜んで受け取りながら生涯を歩んできた母らしい言葉であった。

しかし、そんな話をしていた母は、その薬を使うことなく一瞬のうちに、本当にあっという間に苦しむ事もなく天に帰っていった。病室に尋ねてきた主治医の目の前の出来事であった。恐らく急激に大きくなっていた腫瘤に圧迫されていた大動脈が破裂したのではないかという医師の見立てであった。

父が天に帰ってわずか6日後のことであった。

一週間のうちで月曜と土曜日に続けて葬儀を持つことになった私たち姉妹は、その出来事の全てを追われるように経験して今に至っている。

父享年87歳 5月15日 召天

母享年89歳 5月21日 召天


亡くなる前に母は話してくれた。

「死ぬことはちっとも怖くないの。

だってね。愛する愛するイエス様の元に行くのだから。

生涯かけて愛したイエス様に会えるのだから。

いのちをかけて私を愛してくださったイエス様に会えるのだから。」


nice!(0)  コメント(0) 

父のこと [家族の事]

昨年11月に父は、誤嚥性肺炎で緊急入院した。

元から50歳代に発症した喘息を患っていたので、レントゲンを見た医師は、両方の肺の下部分が喘息のため白く写っていて、この肺炎のせいかと思い、とても驚いたようだった。


そんな状態でほぼ半月を入院して過ごしたが、無事に退院ができた。

入院中は、身体のリハビリをしてくださったり、経口食のリハビリをそれはそれは優しく丁寧にしてくださって、私は行く度に「昨日はこれくらい、今日はこれくらい口にすることが出来た。これからの計画は…。次の段階は…。」と報告して下さる担当医師と看護師さんに本当に感謝した。


心筋梗塞や様々な既往症があった父は、毎食後多くの薬を飲んでいたが、入院中の最初の一週間ほどは、何も口にすることが出来なかったため、30年近く薬を飲まない日はなかっただろうに、おそらく初めて一切薬なしの日々を過ごした。

それでも、少しずつ経口食を始めて、十日ほどで病院の食事を工夫して食べられるようになり、薬も飲めるようになって行った。


退院してきたときの父は、驚くほど認知症の症状が薄らぎ、目を開けていることが多くなり、反応もはっきりしていて、声を出すことも多かった。あいにく母が、骨髄異型性症候群の症状が悪化し、白血病に近い症状や膀胱に癌の疑いが出てきたために強い薬を使い、その副作用がとても悪くて入院していたときであった。

退院した父の家に私が泊り込み、デイサービスやショートステイの利用も始まったのだった。

その頃のことをブログにも書いたが、レビー小体型認知症がひどくなってから始めて私の名前を呼んで確認したり、腕を広げて私を抱きしめたり、両手を握って何度も何度も力強く振ったり、それまでなかったことをしてくれた。

そのことが、私にはとても不安で、かえって「なぜだろう」と思わされたのだった。


そして、12月に入りショートステイ先で高熱を出した父は、わずか一ヶ月の間に二度目の誤嚥性肺炎を起こしたのだった。救急車で先に入院したところとは違う病院に運ばれて、母がお世話になっている病院と同じところに入院した。そのことは本当に良かったと思っている。

しかし、父は再び経口でものを飲み込むことが出来なくなった。今までも飲むのを本当に苦労していたので、初めの入院後に粉末に代えてもらった多くの既往症の薬も、一切飲めなくなった。先の入院の時は、若い女医さんから詳しく丁寧に説明していただき、そのような状態になっても、回復して行ったら大丈夫ですと言っていただいていたが、この時の入院では、父はそのまま療養型病棟に移ることになった。積極的治療はできないということだ。


仕方がない、リスクは高くなっているのだから。

薬を飲むことで起こる肺炎のリスクと既往症の薬を飲まないリスクはほぼ同じ。

そんな説明を受けた。

そんなことはわかっている。

ただ、これで父はもう回復して行くことはないのだ、もう家に帰ることはほぼ出来ないのだ、あの日々はもう帰らないのだ、恐れていた次の段階に移って行くのだ…心に渦巻いていたあの不安や恐れが私を打ちのめした。


わかっていることでしょう、信じているの?、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう、医師や病院を困らせてはいけないでしょう、悪い印象を与えてはいけないでしょう。


今まで、どれほど私が口にしてきたことだろう。

そのような恐れや不安を心に覚えている人に向かって。


そのような言葉が、果たして不安や恐れを癒すことができるだろうか。

決して出来ない。

むしろ、その言葉は不安や恐れを持つ心を裁き苦しめ痛める。


私は今まで本当に、そのような痛みや苦しみや弱さを覚えている人の心をわかっていなかったのだと、自分がその立場にたって初めて分かったのだった。


私は打ちひしがれてしまい、それからしばらく鬱のような状態になり(その時はわからなかったが、後で考えるとそうだったのだと思える)父に会いに行くことも父のことを考える事も苦しくなり、前向きに何かを考えることも、しなくてはならないことをする事も出来なくなり、教会の一番忙しいクリスマス時期にただただ虚ろに過ごしてしまった。20年以上続いて描いていたみことばのしおりも、絵を描くことが出来ずにコピーしてシールですませた。

父たちの家を管理しなくてはならず、ベランダの鉢に水をやりに家に行くのだが、父の介護用のベッドを引き取ってもらったり、お世話になっていたデイサービスやショートステイ先に行き挨拶をしたり、残っていた薬や介護食などを処分したり、淡々とできることをしながらも、不意に胸が苦しくなって涙が溢れることが度々あった。

今でも、その頃のことを思い返しては胸の痛みを感じる。


新年を迎えて、家族で話す時があり、私はようやく父の見舞いに行く決心をし、それからコロナのせいで面会ができなくなるまで約一ヶ月半ほど週五日父のところに通った。

かつてのように、父の世話をし、その側で時間を過ごしながらも、何か心に一つの区切りのようなものが出来たことを、出来てしまったことを感じていた。


人の心は本当に面倒で複雑でわかりにくくて、自分の心でさえ自分ではどうする事もできない。私のように自分のことを素直にありのままに話すことにストッパーがかかって育った人間が、心の中で思い巡らすことは複雑すぎて自分でも理解できない。

だから、時々このようなブログを書くことさえも、意味なく思え、また書き表すことに抵抗を感じて書き続けることが難しい。


そんなことってあります?


単純に考えられたらいいなと思う。

二律背反の考えの両方が両立するはずがない、それが両立してしまうのが人間の心の複雑さなのかもしれない。頭で考えることと心で思うことは一つではないのだ。


お父さん、会えなくなって長い時間が過ぎました。

お父さんたちが、長く暮らした町を離れてこの街に越してきて13年が過ぎて行きますね。

一緒にたくさん長い散歩をしましたね。

歩いて、そして車椅子になってからも毎日のように散歩しましたね。

小さな花を見て喜びましたね。母のために花を持ち帰った事もあります。

昔の話をいっぱいしましたね。随分自分の思いや考えたことを話してくれましたね。

認知症がはっきり分かってから、どうしても文章が書けなくなるまで交換ノートもしましたね。多分、おかしな字を書いてしまうことや、文章がまとまらないことがあって、それで書くことをやめてしまったのでしょうか。


今日もお父さんの病室に、明るい春の陽が差し込んでいるでしょうか。

きっと目をつぶったままでも、その光がわかるでしょうね。

私は、きっと今日も目を瞑り静かに横になっているであろうお父さんのことを考えています。

いつ会えるのかわかりません。

でも多分いいのです。

会えることが良いのではなく、今、目の当たりにお父さんを見、会うことが出来なくても、お父さんの思いと存在のすべては心の中に濃厚にあるのだから。


今日もお父さんの一息一息を神様が守ってくださいますように。

頭の中に浮かぶすべてのものが、良きものでありますように。

そばにいて介護してくださるすべての人々が、守られてやさしい気持ちで接してくれますように。

スズメの親子 1.JPG


nice!(0)  コメント(0) 

夫の誕生日 [家族の事]

今日は夫の誕生日である。


このような状況の中なので、いつもとは違う誕生日になるだろう。

それでも、朝一番にお祝いを言って、お互いに感謝の言葉を伝えて……そして、後はいつもの日常。

そうそう、LINEで東京のたかからお祝いの言葉があった。よく覚えてたね。


初老と言われる年齢になって、それにふさわしくあちこちにヒビが入り(笑)不具合が生じ、思うように動かない体に不自由を感じることもあるだろうけれど、心と思いは年ごとに成熟し充実しているようだ。

秘密のノートに(なんだそりゃと思われると思いますが、みんな持ってない?日記ではないんだけど、私は、様々思い巡らしていることや思い出や、好きな言葉、昔の人たちのこと、家族のことを書き込んでいるノートがあるんじゃよ恥)夫の好きなところ、賞賛されるべきところを書き込んでいるが、もうページいっぱいになってしまったよ。

そうしていると、小さなすれ違いや誤解や、傷つくことも拭われる。自分の中でそれらのマイナスの事ごとが解消されて解決する。


結婚式の時に司式の先生がおっしゃった「すべての歴史中から、すべての世界の中から、あなたのためにこの人を選び、この人のためにあなたを選ばれたのは神様です。」という言葉を思いながら33年。


今朝も、二人でその年月を感謝した。

浅瀬のハート.JPG

nice!(0)  コメント(0) 

みんみのこと [家族の事]

みんみが結婚する。

結婚式花飾り.JPG

 一昨年の11月に友人の紹介で出会い、去年の3月に「結婚を前提にお付き合いしてください。」との申込みをいただき、二人は1年の間、静かに、穏やかに、大切に、お付き合いを続けてきた。


 今年の2月、正式にプロポーズされて、みんみは「はい」と言ったそうだ。

後で夫が「なぜそんなにすぐに返事したんだ。祈って考えますとか父に聞きますとか言えばよかったのに。」(笑笑)などとぼやいて?いたが、素直でまっすぐな二人のことだから、損得勘定なし計算なしで進んだことなのだろう。

4月にお相手がご挨拶に来られ、みんみもお相手の行っている教会と牧師先生方とご両親にご挨拶に行った。

 実は様々な難しい問題はあるのだが、神様はきっと今までそうであったように、これからもみんみを守って支えて導いてくださると信じている。


 三人の子どもたちの中で、最も主張が弱く(かと言って自分の考えがないわけではなく、ひょっとしたら三人の中で一番強いかもしれない)大人しく(小学校中学校と、人前で話すことが苦手で貝のように口を閉じて過ごすことが多かった…でも高校で豹変した。女子校に行きアーチェリーを始め、美術を専攻してから明るくおしゃべりで楽しく毎日を過ごすようになった!男子がいなくなったからだと本人は言う。)色が白くて細いから病弱のように見えて(実際長い間アレルギーに苦しんだ。なんとか今は回復して薬もなくても過ごせるようになった)控えめで(毎日食事の支度や家事を手伝ってくれるが、自分の事は後回しにしても人のために都合よく動く…どうして人の考えていることや願っていることがすぐにわかるの?って思うこともあるくらい。それが嫌ではなく喜んでできるところに、真の強さがあるんだろうな。)

 いっちにあれこれ指図されても、すぐに椅子から立ち上がってお湯を沸かしてあげたり、何かをとって渡してあげたりすることが、なんの抵抗もなくできる。自分なりの考え方はしっかりあるので、時々意に沿わないことだってあるのだろうが、そこから早く回復することが出来る様になった。


そして、いっちとみんみは本当に仲がいい。

コロナで仕事が休みになり、自宅にこもっている毎日だけど、夕食後に二人でふざけあっている姿を見ると、感謝だなあと思う。

 

コロナのせいで、婚約式も結婚式もはっきりと決められない中にあるが、それでも本当に信じられないほど感謝だ。


みんみが結婚する!!

手.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

それでいいや [家族の事]

「人格的責任範囲」

と言う言葉があるのだそうだ。

曇天梯子.jpg

 昨年父と母の介護が大きく重くなり、時間的にも体力的にも精神的にも生活の大部分を占めるようになった。夏前からは食事作りも始まり、それまでなんとか二人分を作っていた母が、とうとう体力的に難しくなり、作り置きをしたり、買ってきたもので済ませることもあったが、毎日うちから二人の食事をトレイに乗せて運ぶようになっていた。若者達と同じというわけにもいかず、両親の食事は別物であった。また、父と母の食事も違うものであった。

 父がデイサービスやショートに行く日は、朝の父の支度と準備と迎えの時間を気にしながら過ごすようになり、往診や処方される薬を取りに行くことや、そのほかの細々した日々の仕事も、こなさなくてはならず、嫌だと思ったことは一度もないが、頭も心も体もそれらのことでいつもいっぱいだった。


そのため、自分の仕事としている様々なことに手が回らなくなり、1日かかるミーティングや、長期にわたる継続的な仕事はほぼ全て誰かに委ねざるを得なくなった。また、教会の中での奉仕なども、出来なくなり、ほかの人に代わってもらうことが多くなった。


その事は私にとって本当に幸いであった。

それは、楽になるとか、時間ができるとか、そういうことではなく、「人に委ねる」ということを学ばされ、「誰かを信頼して任せること」に安心を覚えることができるようになった。

なんでも自分のように出来なくても、思ったような仕上がりでなくても、計画していたことが変わってしまっても、それでも良かった。「良かった」と思えるようになった。

それは、多分、私の中の優先順位がはっきりしたことも理由の一つだろう。そして、自分の人格的責任範囲を見出すきっかけにもなった。


それは「私でなく」全てを導いてくださる方の完全を信頼することを教えられたからだろうと思う。それは大きなことだった。

「こうでなければダメだ」

「こうあるべき」

「ちゃんとしなければ」

「きちんとしなければ」

囚われていた様々な括りや拘りが、一つ一つ解かれていった。


ゆっくりでなければ進まない介護。急いだって何にもならない。父には父の「時」がある。父には父の「タイミング」がある。どんなに時間がかかっても、急ぐことにはなんの益もないということを学んだ。きちんと出来たからといってそのこと自体にも意味がないことも、あっという間に覆される出来事に学んだ(笑)


「なんとかなる」ということの根拠は「愛」だ。そして「赦し」なんだな。


11月に激変した生活に、心がまだついて行けないのだが・・・。


自分を知ることの難しさと平安。

不安定な自分に失望することなくそれを受け入れるということの充足。

傷ついたところに滲み透る「それでいい」という潤い。

椴法華ヤコブの梯子1.JPG

「あなたの深いご計画の中で与えられたこの一年の重さと大きさと深い意味を改めて思い返しています。主よ」

nice!(0)  コメント(0) 

父のこと [家族の事]

まもなく一年が閉じようとしている。

島田家の門から中をみる.JPG

12月の9日の夜、父がお世話になっていたショートステイの施設から「三十九度の高熱が出ておられるので、救急車で搬送します。」という電話が入った。

様々な理由で、父は隣町の病院に搬送された。これはあり得ないことで、施設が提携していて紹介状などを書いていただける病院でもなく、施設が建っている市内の救急病院でもない。11月に誤嚥性肺炎で入院した病院でもない。救急車は市を超えて、普通30分以上かかる隣町の病院に父を運んで下さった。

そこは、母がお世話になっている病院で、妹の家からすぐ近くで、今仮帰宅で妹の家に母が滞在しているため、母が会いたいと思ったらすぐに会いに行ける場所にある。担当になった医師も、母がお世話になっている院長も皆「よくここにこられましたねー。」と言われた。不思議だけど、神様はちゃんとわかっていてくださる。


高熱の原因は誤嚥性肺炎であったと思われる。わずか一ヶ月の間に二回の肺炎発症と入院は、父の様々な力を弱らせたと思う。

絶飲絶食で何日も過ごす間に、既往症(心筋梗塞、難治生喘息、レビー小体型認知症、パーキンソンなど)の薬を飲めず、咀嚼も嚥下もせずに過ごす。

そして、その週の金曜には療養型病棟に移った。


家族の生活や意識は激変したと思う。私は、毎日一日中父のことを考えて生活していた日々から、誰もいない部屋と空のベッドを見るたびに、おそらくもう元には戻れないと言う事実を突きつけられて心が凍えた。


こんなことがあったことを思い出した。


1回目の入院から戻った11月のある日。食事を終えた父は、珍しく目を開けていた。布団をかけて「しばらく横になりますか?」と言ってベッドを倒そうとした私の顔を横目で見た。うまく首が動かないようだった。

そして、ゆっくり両手を広げた。

そんな風に父が体を動かすことはほとんどない。私は父が両手を広げたことに驚いて、その手をとった。すると父は、しっかりと握ってその手をゆっくりと上下に振り、また何度も交差させて、まるで小さい頃に遊んだようにそれを何度も何度も繰り返した。

私は驚きながら父を覗き込んだが、そのとき父がおぼつかない口調で言った。

「○○○かい?」(長く住んだ北海道弁)

それは私の名前だった。

ほぼ3年ぶりに聞く、父が私の名前を呼ぶ声だった。

そして、大きく腕を広げて私を抱いてかたく抱きしめた。

私も父を抱きしめた。

それを二回繰り返した後、父は手を胸の上において「大丈夫」と言った。


私は驚きと恐れで胸がいっぱいになった。

これはなんだろう・・・。今までこんなことはなかった。

こんなにはっきりとしている父を見ることも、私の名前を呼ぶことも。

なんだか嫌な予感がして、その場を立ち去り難く、しばらくして目をつぶって休む父の顔を長い時間眺めていた。


けれども、父はその日も変わりなく終え、次の日も次の日も以前と同じようだった。声を出すことも稀で、口から出るのは「大丈夫」また本当に時々「すみませんね」「ありがとう」と言う、とつとつとゆっくりとかすれかすれにいう言葉だ。

ほとんどの1日を目をつぶったまま穏やかに過ごしていた。

 一回目の退院後にミキサー食に変わり、家でもそのような食事を用意していた。そして、12月にショートステイに行ったのだった。


朝ドラを見ていて、主人公の父が、その死の間際に手を伸ばして主人公の頭を撫でるシーンに涙が止まらなかった。


病院にいる父を見舞い、こっそり足に薬を塗ってマッサージして帰る。療養型病棟だから、お見舞いの時間も気にしない。

でも、父はいつも目をつぶったまま、わかっているのかわかっていないのかもわからない。そんな父を見ることも辛い。でも多分、この時間もまた与えられている掛け替えのないときになるんだろうな。


今日は父のこと。記録しておこうと思った。

nice!(0)  コメント(0) 

長のお休み [家族の事]

長い長いお休み。

前回ブログを書いてから一体どれくらいの時間が経ったのだろう。

状況は大変化した。


母は退院のない入院生活に入った。

白血病と膀胱癌、どちらも手術も抗がん剤の治療もできない年齢と体力。

緩和病棟に入り、対処療法で過ごしている。

一人部屋では寂しいと言って大部屋に入ったが、ほかのベッドの方々は話すことも歩くことも出来ず、胃ろうして全て看護師の介護によっている。

母だけが、真っ白の顔をしながらよろよろと自力でトイレに行き、自分で食事をなんとか食べている。毎日尼崎の妹が顔を出し、洗濯物や必要なもののお世話をしている。私も訪ねては、昔話をしたり、窓の外を遠く飛ぶ飛行機の離着陸を一緒に見ては「健気で涙が出る」という母と笑いあう。


父は寝たきりで全介護の状態のままアパートに一人になる。

ということで、四人の姉妹が代わる代わる泊まり込みでお世話をしている。

それでも、週三回のデイサービスや、月一回か二回のショートステイに助けられている。父も、ショートに行ってはリハビリの余韻で帰ってからも足を動かしたり、覚醒して目を開けて受け答えをしっかりしたりして嬉しい。


夫が検診で心臓に問題があることがわかり、専門病院に行ってカテーテル検査をしたり薬が処方されたり。精密検査も進められて、難病指定が出るかもしれないなどと脅かされたが、とりあえずはそのまま。夫婦共々お互いに労わりあって(笑)過ごしている。

父の介護の間は、両親のアパートに泊まり込みになるので、夫は食器の洗い物、洗濯物など細々と自分からしてくれるようになった。

かつての私はその事が自分の怠惰のせいのようで耐えきれず(苦笑)無理をしても頑張って自分でやったものだが、いまは時間的にも体力的にも助けてもらわなくては出来ないことばかり。


そんなこんなでブログを書く時間もなかったし、書けなかった。


いつかこの時は過ぎて行き、懐かしく寂しく悲しく思い出す時が来る。

それは必ず来るのだ。


この日々をなぞりながら、涙を流す時も来るだろう。

だからこそ今を大切に過ごしたい。

かけがえのない時をそのように思いながら過ごしたいと思う。


関東の妹が来てくれて、北でのお仕事がある私たちを送り出してくれた。

幼い日の友人宅は朽ち果てて、主人の居場所もわからないが懐かしい花は咲く。

梨田さん跡地の紫のシロツメクサ.JPG

砕氷船の出る川の河口近く。暮れゆく秋の空を見上げる。

砕氷船の出発港.JPG
そして雁が渡って行くのだ。
網走 雁が渡る.JPG


nice!(0)  コメント(0) 

じゃあね。 [家族の事]

 レント後半を捻挫の痛みと共に過ごし、喜びのイースターを迎え、あっという間に五月の連休に入ったが、相変わらず、世間はお休みと言ってもほぼ日々変わらずの生活。関東の妹たちに助けられて、少しゆっくりしたかな。


 結婚式に出席のために東京に行き、同じく出席したたかに一ヶ月ぶりに会う。式と感謝会が終わった後、優しいたかは、田舎から(笑)出て来た母さんに付き合って、帰りの新幹線までの時間を一緒に過ごしてくれた。カフェに入り、コーヒーを飲み、少し話をして駅の改札口で別れた。優しいハグをして。

手を回した背中は、肩甲骨がはっきりわかるくらい痩せていて、久しぶりに来たスーツはこんなに大きかったっけ?と思ったと言う。

 姿が見えなくなるまで見送ってくれたたかは、自分の生活に帰って行く。

私はいつも頑張ってなんでもないふりをする。泣いたら負担に思うだろうし、ベタベタしても嫌だろう。あれこれ世話を焼きたいけれど、始まったばかりのたかの一人の暮らしを邪魔したくはない。


 いつまでも翼の下にはいないのよね。

 やがては一人で飛び立って行くんだもの。

 ここで手を離さなければならないんだよね。

 居心地の良い巣から出ていかせなくてはならないんだね。


「じゃあね」と言う便利な言葉で別れるけれど、胸の中には言い表せない母の痛みが満ちている。きっと私の母も、そしてそのまた母も、独り立ちして行く子に同じ思いを抱いていたんだろうな。

 私の母は、改札口で帰って行く子を送った後はいつも泣きながら家路についたと言っていた。そんな思いが、子どもたちに重荷にならなくなる時まで、胸の中にしまっておかなくてはならないんだろうな。


空の道.JPG

nice!(0)  コメント(0) 

躑躅 [家族の事]

そうだった。

それで、祖父の大事にしていたツツジ(蝦夷ツツジ?)の写真をアップしようと思ってたんだった。残念ながら、関西に持ち込んだら、夏を越すことができず・・・気候のせいなのか枯れてしまった。

返す返すも口惜しい。

おじいちゃん、ごめんね。


おじいちゃんのツツジ.jpg

nice!(1)  コメント(0) 

祖父母のこと [家族の事]

 母方の祖父は奈良で生まれた。祖父の父親の名前は「奈良一」……うん、わかりやすいな。祖父は、十代で、北海道の寺子屋の先生として開拓に加わった父親に連れられて、上川あたりに住むようになった。奈良一さんは学識深く、本当になんでもできる人であったと私の母は思い出話に話してくれた。

 一方早くに亡くなった母親は、座ってゆっくりしている姿を見たことがないというくらいの働き者だったらしい。食事も、仕事の合間に一人、お勝手で膝をついてかきこむようにして食べていた記憶があると話していた。


ポプラの雪道.jpg

 過酷な北海道の冬をいくつか越して、父親や妹や弟たちと生活する基盤を固めるために祖父は三井物産に就職した。奈良一おじいさんは道楽者で放蕩者でもあったらしく、のちに年老いたその奈良一おじいさんを祖父が引き取った時には、兄弟親戚の人たちが「信じられない。あのおじいさんを引き取るとは、あり得ないことだ。」と言ったとか言わなかったとか。それくらい、祖父は父親に苦労し、また苦労している母親の姿を見て来たのだろう。祖父は父親を好きでいたとは思えない。

 祖母と結婚して、勤めも忙しくなり、祖父は北海道中を転勤して回った。釧路(ここで私の母が生まれた)帯広、樺太、浜頓別、そして最後に留辺蘂。出張が多く、たまにしか帰ってこない夫を見て近所の人たちが、祖母のことを正式な妻ではないと噂していたらしい。祖母は渚滑の出身で、若い頃にミス渚滑と言われたほどの美人で、天然の明るい面白い祖母だった。

この祖母が救世軍の教会で信仰を持ち、私たち家族もまたクリスチャンへと導かれたのだ。

 祖父母は年老いて、住み慣れた北海道を離れ、埼玉の叔父のところに住んでいたが、やがて山形県米沢市に住んでいた長女である母の元に住むようになり、そこで最後を迎えた。

 病で手術を受けた後、祖父は突然亡くなった、残された祖母は寂しさが募り、無理をして北海道の家族を訪問することにした。初めての飛行機の旅であった。空の上から懐かしい北海道を見ながら、祖母は声を出して泣いたと言う。


 祖父母のことを思い出すとき、私の心には「故郷」と言う言葉が思い浮かぶ。ありふれた言葉だと思うけれど、生まれ育ったところ、懐かしいところ、家族、遠くにあって思うもの…。人それぞれ、色々だろうけれど。


雪と鹿.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

母の米寿 [家族の事]


九月はいっちとみんみとたかの誕生日の月。

そして、私の母の誕生月でもある。

今年母は88歳になった。米寿である。めでたいことだ。

色々厄介な病を持っている母だが、毎日父の介護を共にしながらも、細々した家事も毎日の生活も守られて過ごせていることに感謝。

相変わらず可愛い母である。一言で可愛いと言っても、実にいろんな意味があるけど…(笑)


母の誕生日を機に関東の妹たちも集まり、お祝いの食事会をした。

一番下の妹が、米寿のお祝いの色は黄色だということで、大きな盛り花を送ってくれた。とっても素敵だ。

IMG_1307.jpg
父は起きて一緒に食卓につくことはできなかったが、居間で話し声や笑い声が響いていることを喜んでいた。
考えてみたら、昔から女ばかりの家族の中で、父は寡黙…にならざる得なかった?いや、もともと静かな人だった。実に中身は強い人であるが、普段はいつも穏やかで丁寧で静かな人だ。曲がったことが嫌いで、きちんとしていないことが嫌いで、「まあまあ」ということを納得できず、苦しい思いをしたこともあっただろうと思う。
高校を卒業して、神学校に入り、二十歳すぎで牧師として働き始めた。
世間を知らないという人もいるけれど、多分父は世間を知っても本質は変わらなかっただろうと思う。そういう人だ。
秋晴れの良い日に、車椅子の父と母と、父の好きな小さな花々を見に行けたらいいな、と思う、本当に。

nice!(0)  コメント(0) 

四日間の休日? [家族の事]

今週は日本全国お盆休みのところが多いが、キリスト教界ではキャンプが目白押しで、夫もファミリーキャンプの御用で13〜16日まで軽井沢に。いっちとみんみとたかは、教団の四年に一度の青年全国大会(まあ青年キャンプのようなもの?)があり13〜16日まで大阪の貝塚にある大阪府立少年自然の家へと出かけて行った。

・・・

ということで、両親の介護とお世話があるとはいえ、なんと4日間も私一人!!

お家で私一人だけの生活!!

え?え?え?

初めてじゃない??


ふふふふふふ。


1日目

台風のせいか風が強く、お昼近くにみんなを送り出した後、家に戻ると誰もいないはずなのに、どこかで物音がする。窓やドアがガタガタ鳴る。これは、本当に怖いです。そして、それと同時に寂しさが押し寄せてくる。誰もいない。家の中に誰もいないのだ。家の中どこに行っても私一人。いやいやいや。当たり前だから。

そこで、冷静になって4日間の計画を立てる。

そうだ、誰もいないのだから、何時に私が何をしようと気にする人はいない。自分のしたいことをしたいときにすればいいんだ。自由だーーー!


私は何をしたい?


・・・部屋の片付け・・・。


とほほ。

ちっとも楽しいことじゃないじゃないの。

でも、この機会じゃないとできないし、きっと気持ちが良くなるよ。


両親の夕食は6時前後なので、夕食作りはいつも通り。

朝も、デイサービスがお休みで出かけない父がいるので、だいたいいつも通り。

でも、私の食事時間も全ての時間が自由だーー!


興奮したせいか、怖いせいか、寂しさのせいかなかなか寝付けず、明け方を迎える。

隙間に様々な書類を作ったりメールを送ったり・・・自分の仕事を片付ける。


2日目

まずたかの部屋の片付けと掃除、みんなのシーツや布団カバーや枕カバーの山ほどの洗濯をする。朝も早よから洗濯機を回す回す。

朝食と昼食は基本冷蔵庫の片付けで済ませる、楽ちん。

午後から玄関の片付けと掃除と飾り付けを変える。

途中で両親の家に来客があり、お接待。本当に感謝な時を過ごすことができた。

そのあと夕食の買い物に行って夕食を作る。

6時過ぎに両親の食事を持っていき、父に食べさせ、薬を飲んでもらって就寝の支度が終わるとだいたい一時間半。

それから家に帰って(家に帰っても誰もいない…帰る時間を気にしなくても大丈夫)自分の食事。それから、玄関の飾り付けのための布を縫う。なんと夜にミシンかけしても誰にも何にも言われない。

見たいテレビもないので、食事が終わると玄関の飾り付けの続きをして終わらせる。

合間に、ある集まりの発送準備の書類作り。

あと気になるところは電話台と電子レンジの棚。

構想を練って眠る。

流石に昨夜寝られなかったので、早くに眠りにつくことができた。


3日目

明日はみんなが帰ってくる。

あれ?意外と早いな・・・。

ずっと前から気になっていた私の書類棚と使っていない机の上の片付けに着手。着手してすぐ山ほどの書類を前に「これ、始めたはいいけど終わるんかい?」と自問。始めたら終わらせなくちゃ。結局途中残り物のおにぎりを食べたくらいで、夕方までに頑張って片付ける。うん、いい感じ。

6時過ぎ、今日は両親のところで夕食を食べることになっている。両親のところに行き準備をして、先に母といただき、そのあとで父に食べてもらう。父の食事は介助がいるので、一緒に食べることはできないでのある。父の就寝の支度をして家に帰り、部屋の掃除をして3日目が終わる。


4日目

この日は父のデイサービスの日。8時40分にお迎えの車がくるので、7時過ぎから出かける準備をする。無事送り出したら、10時からのミーティングのために教会へ。お昼過ぎまでいろんな話をして、3時過ぎ家に帰ると、ちょうどいっちとみんみとたかが帰ってくる。お疲れ様。

夫は金沢周りで帰る予定が、大雨のために北陸線が普通になり、帰宅は1日延期になったという。夕方買い物に行って、今日も6時過ぎ両親の食事を持って行く。介助して食べてもらって、就寝の支度をして寝ていただき、家に帰ってみんなの食事の支度。いっち達は疲れたのかぐっすり寝ていた。8時過ぎにみんなで夕食。


こんな感じで私のおやすみの日々は過ぎて行った。


そしていつもの生活が戻ってくる。


たった4日だったけど、自由な時間と自由な思いつきの行動ができて、これはいっちが「一人暮らしがしたい」と言うのも良くわかる、と思ったのだった。


nice!(1)  コメント(0) 

長いお別れ [家族の事]

文春文庫:中島京子「長いお別れ」を一気に読み終わった。

エピソードの一つひとつに思い当たるものがあり、また経験したものがあり、そして、父の現状とは比べ物にならないほど大変な介護の現状を知らされたり…。


心の中を探られて、自分はどうだろうと省みて苦しい思いも味わった。


でも、何より何より、何よりも、改めて、記憶と分別を失って行く自分自身にどれほど父は苦しみ悩んだだろうと思わされて辛かった。


引き込まれて読み進んだが、最後の最後にミスター・グラントと崇の会話に、涙が止まらなかった。そうか。亡くなったのか。そうだ、亡くなるのだ。いつか。いつか。わからないけれど、確実にその日はやってくるのだ。


父は、私たちに長いお別れ『Long good-by」を教えてくれているのだと思い当たった。

少しずつ少しずつ記憶を失い、ゆっくりとゆっくりと私たちの世界から遠ざかって行く。それでも、このなかに記されているように、何かを忘れてわからなくなってしまっても、父は父以外の誰かに変わってしまったわけではない。


幼い時の覚えている元気で前向きで意欲的な父も、思春期の苦しみの時に語ってくれた思慮深く尊敬していた父も、大人になって一人前に扱ってくれて嬉しかったあの時の愛情深い父も、結婚式の時に「宝物だよ」と言ってくれた父も、歳老いて引退して近くに越して来て、心細さや不安を口にするようになった父も。


全ての父が今の父の中にあるのだ。


富良野1本.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

ひろみちゃん [家族の事]

大阪の地震からもうすぐ一週間。西宮も5弱の揺れで、棚からものが落ちたりした。私と夫は、所用で日曜からでかけており、その土地の朝のニュースで地震を知った。

家で留守番をしていたいっちとみんみは、飛び起きて3階の私の両親を見にってくれたそうだ。割れた硝子を片付けたり、一緒に時間を過ごして夕食も一緒に食べたそうだ。ありがとう。


阪神淡路大震災のとき、いっちは7歳。みんみは5歳、たかは3歳だった。教会が避難所になり、近所の人や教会の人たちと避難生活を送った。全国から、さらに世界中からボランティアが来て滞在した。本当に感謝だった。驚いたのは、当時まだボランティアが定着していなかった日本人は、みな着替えのみで来てくれたのだが、外国人のボランティアの方々は、寝袋持参、食料持参、その上ボランティア活動の計画書と付近の地図を持って来て、すべての活動を自主的にしてくださった。


そんな中、たぶん一番ダメージを受けていたのはみんみだった。30分ごとに腹痛を訴え、落ち着かず、しばし仕事やボランティアの世話の手を止めて、みんみを抱き上げて過ごしたものだ。

このとき、ある方が手作りの高価なお人形をたくさん持って来てくださった。震災にあった子どもたちのためにと捧げてくださったのだ。そこで、近くの幼稚園に寄贈させていただいたのだが、その方のご厚意でみんみに一体下さった。

ひろみちゃん

ひろみちゃん.JPG
今回の地震の後で、いっちが気がついたら、みんみはひろみちゃんを抱いて寝ていたそうだ。思い出したのかなあ。あのころ、よくひろみちゃんを抱いて泣いていたみんみ。怖かったね。


nice!(0)  コメント(0) 

五月だから [家族の事]

母の日に、いっちがプレゼントしてくれたのは、大好きな六花亭のお菓子。喜んで食べ過ぎないようにしなくちゃ、と思っていたけれど、あっという間に無くなりました。

美味しかった〜〜〜。

いっち!ありがとう![ハートたち(複数ハート)][るんるん][るんるん][るんるん][ハートたち(複数ハート)]

                                                                        
マルセイバタサンド.JPG
                                                                                                        
五月に入り、暖かな風が吹き、雨もまた冷たい春の雨では無くなったようだ。そこで、虫に食われて全滅状態のベランダに、苗を買って来て植えた。
ゴーヤ、紫蘇、枝豆、サラダ菜、朝顔・・・。
虫除けをまいて、後は充分水をやって太陽を待つ。
狭いベランダだけど、いのちが育っていくのを見るのは本当に嬉しく楽しい。雀もやってくるけど、もう暖かな季節だから、パンのおこぼれはもうやらないよ。
                                    
五月ベランダ.JPG
                                                                        そういうわけで、ベランダに出るのが楽しみになった。

nice!(1)  コメント(0) 

忘れな草 [家族の事]

いっちが春だというので知らないうちに何かの苗を買ってきて、ベランダの鉢に植え付けた。しばらくして葉が伸びつぼみが出てきたのを見てみると、私の一番大好きな花「忘れな草」だった。


子ども時代を過ごした北海道の家の前は、広い広いどこまでも続く(子どもだったからそう見えた)田んぼだった。真ん中に小川が流れていて、その土手に一杯の花が咲いていた。

ミズソバやイヌタデやシロツメクサやムラサキツメクサやナズナやハコベやオオバコに混じって忘れな草がいつもいっぱい咲いていた。


雪が消えて田んぼが耕され、水を張る頃になると、私たちは毎日毎日来る日も来る日も田んぼで遊んだ。

さらさら流れる小川には、メダカが泳ぎ、田んぼにはカエルの卵が渦を巻く。


「忘れな草」を買って来てくれたいっちは、私の還暦のお祝いということだった。「ありがとう、いっち。」


暖かい日が続いて花は満開である。


わすれな草満開.JPG

nice!(0)  コメント(0) 

還暦を前に [家族の事]

新年は慌ただしくやってきた。

なんだろう…この落ち着かない感じ。

そんなに忙しく過ごしているつもりはないのに、じっくりと腰を落ち着けて何かをすることが出来なくなっている。

毎日が父の介護に始まり、介護に終わる。それはリズムになってきていて、家族もそれに馴れてきている。それが出来るということは感謝なことであるし、何の文句もない。それでもやはり、時間は制限され、縛られていると言っても過言ではない。

気持ちは落ち着かず、安心も出来ない。いのちを預かるということはこう言うことなんだな。



朝起きて、いつもの静まりの時を持つ。聖書を開き、思い巡らし、ノートに書き留める。この一日の始まりの時が、落ち着いて持てる時と、心の中で焦る気持ちが騒ぐ時と、果てしなく眠くだるい時がある。でもいい。それでいい。いろいろでいいんだ。

天気を見て洗濯機を回し、朝食を用意し、薬を飲み(これは自分の)食事をしながら朝ドラを見ると、父のお世話の時間になる。何時までかかるかは、そのときその時で違うのだから、焦らない様にする。それでも、デイサービスのお迎えが来る日は、間に合うようにと願う。父のスピードを変えようとするのではなく、準備と導きがうまく行くようにしなくてはならない。急いでもらっても良いことは何もない。父の気持ちがいらいらしたり、傷ついたりしないように…。

送り出してほっと一息。デイサービスに行かない日は、もう少しゆっくり。

この朝の一時間半ほどの時間が、仕事や急用で取れない時が問題なのだ。誰にも頼めないので、今のところ仕事も急用も入らないようにと祈るしかない。どうしようもない時は。腰を痛め、肩を痛めている87歳の母が、まさに老老介護の状態で支度をしなくてはならなくなる。


そんな父が昨年からショートステイを利用するようになった。2泊3日の間、優しくお世話をしてくれる介護士の皆さんに父をお願いし、母も私も二日間のんびり朝を過ごすことが出来る。初めは父に申し訳ないような気持ちだったが、帰って来るたびに冴えて言葉数も多くなる父を見ていると、かえって良かったと思える。


明日は私の60歳の誕生日。

日々は移り変わる。生活も状況も変わって行くのだ。そのことを心から喜んで受け入れることが出来るように、私たちの心が柔らかな豊かな平安と愛で満たされて行くことが出来るように祈っている。


雀の木冬.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

秋の夕焼け [家族の事]

一週間が過ぎて行く。毎日、父の介護をしながら過ごしている。決まったことを決まったように、手順を踏んで進めて行く。父が几帳面で、きちんとするのが好きだから。

でも、すべてのことは思い通りには行かないもの。体調やアクシデント。様々なことによって予定は変わり、手順は乱れる。デイサービスのお迎えの時間が迫っていても急げば父の心も穏やかではなくなる。

手順の通り行っても良し、いかなくても何とかなるものだ。上手くスムーズにいくことばかりが良いことではないのだと、この年にしてようやくわかって来た。

待つこと(無駄な時間と思える時を過ごすこと)

手を出さないところ(手順良くいかなくても意味を見いだすこと)

手伝わせてもらうところ(助けるのではなく共同作業)

介護者は私一人ではないと知ること(母の思いを知ること)


父の介護の生活が始まって、諦めなくてはならないこと等も増えて来たけれど、多分それはしてもしなくても良いこと、あるいはあってもなくても良いことなのだろう。


冬が来る。

寒い北海道で、秋に入ると両親と一緒に家族みんなで冬支度をした。窓にビニールを張り、それぞれの部屋のストーブの煙突を掃除し、裏の小屋にはストーブの燃料の糠を積み、薪を割り、薪を切り、薪を積む。手伝いにしか過ぎなかったけれど、長く長く続く冬のために、そうしてゆっくりと心を注いで準備をし、やがて音もなく訪れる冬を迎える。

冬は理不尽な寒さと大雪とともにやってくる。もうそれは、避けることも逃げることも出来ないのだ。


多分老いるということもそうなのかもしれない。

夜寝る前に静かに祈る父のそばに座りながら、やがて訪れる自らの老いを思わされた。



西の空の十字架2.JPG



nice!(0)  コメント(0) 

結婚記念日でした。 [家族の事]

11月3日は、私たちの結婚記念日。31年目。


昨年に引き続き新婚旅行先の六甲山に登った。

あまりに人が多いので、有馬へ・・・。

有馬の川.JPG
赤い蔦.JPG

行き当たりばったり感が拭えないけれど、とりあえず…。

でも、三連休の初日、秋の良い晴れの日。人も車も多いはずだよ。

行くところ行くところ人の山と車の渋滞。

仕方がないので、次は六甲山牧場へ。

懐かしい〜〜〜!子どもたちと良く来た。


六甲山牧場1.JPG


それでも、楽しく過ごした。


六甲山2.JPG
六甲山3.JPG


30年前、生まれたばかりのいっちを連れて、六甲山と有馬に行った。その時に、素敵なカフェを見つけて三人で入った。

今もあるかどうか、道を歩きながら「これじゃない?」と入ったら、ビンゴだった。カフェのママに聞いてみると、そこは36年前に出来たそう。中は確かに36年の年月を感じさせるけれど、コーヒーも景色も最高でした。何より懐かしい。いつかいっちを連れて来てみたいと思った。


30年前のカフェ.JPG


一旦父の排便の介助のため家に帰り、改めて夕食に出掛けた。

こういうところ、年月を感じるね。


ただただ多くの方々の支えととりなしと助けを覚える。

また、すべては神様の恵みとあわれみ。

感謝です。


nice!(0)  コメント(0) 

胸が痛い [家族の事]

愛されていると実感するのは、どんな時なんだろう。

私の母は、祖母にわがままを言っていた時に祖父に平手打ちをされて、愛されていることを実感したという。


「父さんは、みっちゃん(母)が可愛いんだなぁ。」


ふ〜〜ん。

私は・・・え〜〜と・・・う〜〜ん。


IMG_0460.JPG
今年に入って、父の書斎を片付けていた時のこと。
認知症を発病し、それが色濃く出て来る頃に父が書いた「詩」が、聖書の中に挟まっているのを見つけた。
私が幼児だった時に、面白い芸をしてみんなを笑わせているという詩だ。そこには、父の私への愛が溢れている。最初の子を流産して、お医者さんにもう子どもは無理かもしれないと言われた後に生まれた長女の私を、本当に喜び愛する父の言葉が溢れていた。
それを書いたのが、若い頃の父ではなく、年老いて認知症が進んで行くことを恐れながら、なんとか文章を書こうとして頑張っている頃に書いた物であることが余計に嬉しい。
そして、限りなく胸が痛い・・・。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。