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祖父のこと [家族の事]

 今から34年前の4月19日、イースターの日に召された祖父のことを思い出している。


奈良に生まれ、六人弟妹の長男として育った祖父は、幼い時に父親が寺子屋の先生として遣わされた北海道に家族ともども移住した。


 祖父の父親という人は、高野山の僧だった叔父の養子として僧侶になるべく叔父の元に行ったが、自分の長兄が亡くなったと言うことで後を継ぐために本家に戻ったそうだ。

祖父に聞く父親像は、とにかくお酒とタバコの好きな人で、酔うと家族を苦しめたそうだ。母親は、本家の嫁として苦労していたらしいが、更に極寒の北国に連れてこられて、厳しい環境の中で子どもを育て、祖父が16歳の時に39歳の若さで病いの中で亡くなったそうだ。食事の時も、家族の後で残ったご飯を立膝をしてかっ込んでいて、座って食事をしているところを見たことがないと言うくらい、働き詰めに働いて生涯をとじたのだそうだ。

 祖父は1900年生まれで、生きていたら今年121歳。三井物産に勤めて、コツコツと実績を上げ、北海道中を転勤や出張で周りながら、最後は小さな町の三井物産の木工所の工場長となった。しかし、その工場は、アジアで初めて木材生産のオートメーション機械を導入したと言う立派な工場だったらしい。戦後、昭和天皇の行幸を得て、小さな北国の町の小さな駅に、白いスーツに白い帽子を手にした祖父が、昭和天皇をお迎えしている写真を見たことがある。


 その祖父は、私の母が生まれた頃に、さんざん家族を悩まし苦しめた自分の父親を引き取った。その時祖父の兄弟たちは、祖父が父親を引き取ると言うことを信じられない、あり得ないことだと言っていたそうだ。実際は、出張ばかりの祖父の留守の間、祖母が子どもを抱えながら面倒を見ていたのだから、苦労したのは祖母だったろう。北海道の渚滑(しょこつ)出身の祖母は美しい人で、ミス渚滑と言われていたらしいが、若い時に聖書を読んで信仰を持った救世軍のクリスチャンであった。


 私が母から聞いた曽祖父の姿は、隠居部屋でお酒を飲み、気に入らないことがあると祖母の髪を持って引きまわしてデリッキ(火バサミ)で打つと言う、本当に恐ろしい人だ。それでも一面とても器用な人で、お酒が入っていない時は、細々とした物を手作りしたり、上手に歌を歌ったりしていたそうだ。

 その曽祖父が、歳を経て病を得て体が弱り祖母の介護によって生活していたが、祖母がその肩をさすりながら自分自身の愛の足りなさを嘆いて涙を流していたときに、首筋に落ちた涙を感じて曽祖父は祖母の心を知ったのだろう。「あんたの信じている神様は本物や。」と言って悔い改めて信仰を求め、やがて洗礼を受けて人が変わってしまい、優しいおじいさんになって、毎朝祖母と祈りの時をもち、亡くなった時にはその小さな町で初めてのキリスト教のお葬儀がもたれたそうだ。


 祖父は、苦労して苦労して大変な中で亡くなった自分の母と、散々放蕩をして家族を苦しめても、人生の終わりに信仰を持って幸いな最後を迎えた父親の姿を比べて、なんとも言えない思いをもっただろうと思う。


飛行機雲・羽.JPG


 それでも82歳で真の神様を信じて洗礼を受けた祖父の信仰生活は、私にとって何よりの慰めであり喜びであり幸いであった。最後に会った時に祖父は、私を送り出す朝に涙を流して私の名を呼んで祝福を祈ってくれた。

イースターの日、大きな手術の後の回復期であったのにも関わらず、思いがけない大出血があり、あっという間に天に召されていった祖父の死は、88歳という歳ではあったがまだまだ元気でいると思っていた私たち家族にとっては本当に大きな悲しみであり驚きであった。

 手元に、晩年の祖父の直筆の文章がある。何枚も書き直した後がある。忠実で誠実に生きて、晩年は優しく涙もろくなった祖父の信仰告白とも言える文章を改めて読んで胸を熱くしている。


祖父の証.JPG

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